ベトナムの空から、御牧ヶ原の丘へ。
ここで醸造責任者を務める富岡隼人さんが語るワインは、単なる飲みものではない。土壌や気候、先人が水を引いた歴史、生産農家との関係、家族の営み、ベトナムで過ごした時間、そして地元の子どもたちへ手渡していく未来。それらが少しずつ沈殿し、一本のボトルの中で静かに像を結ぶ。
「このワイナリーのワインは、この土地の歴史と文化と風景をギュッと凝縮したもの。最後に私がちょっとスパイスを加えた、という感じですね」
その言葉の奥には、御牧ヶ原という場所を、まだ決めつけず、急がず、時間をかけて見つめていこうとする醸造家の姿勢がある。ジオヒルズワイナリーを訪ねる旅は、ワインを味わうだけでは終わらない。土地が人を育て、人が土地の物語を次の世代へつないでいく、その循環に触れる時間でもある。
富岡さんのワインづくりは、ひとつの畑から始まっている。父・正樹さんは、小諸市の老舗温泉旅館「中棚荘」を営みながら、2002年から御牧ヶ原でワイン用ブドウの栽培を続けてきた。宿を訪れる人に、小諸の風土で育ったものを味わってもらいたい。その思いから、そばや野菜と同じように、ワイン用ブドウもこの土地で育てられるようになった。
一方、隼人さん自身の歩みは、最初からワインへ一直線だったわけではない。2010年から5年間、ベトナム・フエで日本語教師のボランティア活動に従事した。異なる言葉、異なる気候、異なる時間の流れのなかで暮らした経験は、いまの富岡さんの感性に深く残っている。
「ちょうど南シナ海問題で外国人への規制が厳しくなってきた頃、父の委託醸造先だったヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリーさんから声をかけていただいて。2015年に長野がワインの特区になったこともあり、小諸で自分でワインをつくれるかもしれないと帰国を決め、醸造の勉強を始めました」
帰国後は、東御市のアルカンヴィーニュが主催する「千曲川ワインアカデミー」の一期生として学び、2018年、ジオヒルズワイナリーの醸造責任者となった。ワイナリーの名にある「Gió」は、ベトナム語で「風」を意味する。御牧ヶ原の台地で育ったブドウが、風に乗って多くの人へ届いていくように。その願いは、富岡さんの来歴そのものとも重なっている。
ベトナムとの縁は、現在のワイナリーにも自然に息づいている。妻はベトナム・フエの出身で、2階のカフェでは自家製ワインとともに本場のベトナム料理を楽しめる。360度ガラス張りの空間から山並みを眺めながら、御牧ヶ原のワインとベトナムの食が出会う。土地に根ざしながら、遠い場所の記憶も抱く。それが、ジオヒルズワイナリーの風通しのよさをつくる。
水に乏しい粘土の大地が、ゆっくりブドウを育てる。
御牧ヶ原は、かつて湖だった場所が地殻変動によって隆起した台地だという。登りきると、いきなり360度が開け、頂上部はテーブルのように平らな大地になる。だからこそ眺望は美しい。一方で、傾斜が少ない分、水はけは決してよくない。土壌は強い粘土質。ワイン用ブドウの畑としては、扱いの難しい条件も抱えている。
けれど、土地の性格は一方向からだけでは捉えられない。御牧ヶ原はもともとの降水量が少なく、開けた台地を風が吹き抜ける。ブドウが嫌う湿気を飛ばし、病気のリスクを抑えてくれる。強粘土質という難しさと、少雨で風通しのよい高台という強み。その両方を受け止めながら、富岡さんはこの土地の可能性を見ている。
「ワインのブドウは、ストレスがかかってこそ美味しくなる。痩せた粘土の土地では根を張るのに時間がかかる。でも10年、15年経つと、すごいポテンシャルを発揮してくれる。長い目で見れば、ここは本当にいい畑です」
ここでは、早く結果を求めすぎることができない。木が土を知り、根を伸ばし、風と乾きと寒暖差のなかで自分のリズムをつかむまでには時間がかかる。富岡さんの言葉には、栽培技術だけではなく、土地の時間を信じる感覚がにじむ。
現在の自社畑は約3ヘクタール。シャルドネ、メルローのほか、日本ではまだ栽培例の少ないムニエにも取り組む。シャンパーニュの原料にも用いられるこのブドウから、スパークリングワインや単一品種の赤ワインを醸造している。これらは、ジオヒルズの個性を象徴する挑戦のひとつだ。
一方で、ワインづくりは自社畑だけで完結しているわけではない。ジオヒルズでは、契約農家のブドウも大切に使っている。開業2年目には8月の雹でブドウが大きな被害を受けた。その年、契約農家のブドウがなければ、ワインをつくること自体が難しかったかもしれないという。
自分でブドウを育て、自分で醸すことには、確かにひとつの美学かもしれない。けれど富岡さんは、それだけを唯一の正解とは考えていない。地域の生産農家が育てたブドウを使い、安定的にワインをつくり続けることもまた、地域のワイナリーにとって大切な責任だと捉えている。
千曲川を挟んだ左岸の御牧ヶ原と、右岸にあたる浅間山の裾野エリア。双方のブドウを同じ品種、同じ醸造方法で仕込んでも、できあがるワインの味わいは明確に異なるという。川を挟んだ距離、土の質、風の当たり方、陽の入り方。その微細な差異が、グラスの中に見えた。
「フランスのボルドーのように、右岸と左岸でテロワールが違う。飲み比べながら、それを感じていただけたら」
契約農家のブドウを醸すことは、富岡さんにとって簡単なことではない。自分が日々畑に入って育てているわけではない分、そのブドウの特徴をつかみ、どうすれば最もよい形でワインにできるかを考え続ける必要がある。それでも、良いワインが生まれ、評価されることがあれば、それは農家の励みを生む。
「醸造では、あまり手は加えないんです。だから、ブドウがいい状態だったからこそ、こんなワインになったんですよ、ということが伝われば」
地域の生産農家が育てたブドウを、醸造家が受け取り、ワインとして届ける。その関係のなかで、一本のワインは個人の作品であると同時に、地域の共同作業にもなる。ジオヒルズのワインには、御牧ヶ原だけでなく、その周辺でブドウに向き合う人たちの手の記憶も含まれていた。
テロワールは、まだ名づけきれない。
「テロワール」という言葉について、富岡さんは慎重に語る。ワインを語るうえでしばしば用いられる言葉だが、便利に使える言葉ほど、急いで結論にしてしまう危うさもある。
「正直、うちはまだ歴史が浅いので、ここのテロワールはこうだと言い切れない。醸造も毎年違うことを試しているし、ブドウも毎年同じではない。毎年ベストを尽くしながら、その積み重ねの先に初めて見えてくるものだと思っています」
言い切らないこと。それは、曖昧にすることではない。むしろ富岡さんにとってテロワールとは、毎年の観察と試行のなかで、少しずつ輪郭を現していくものだ。土壌、気候、標高、風、水、草、虫、品種、醸造の選択。そのどれかひとつで説明できるものではなく、それらが重なり合い、年ごとに変化しながら積み上がっていく。
この地の成り立ちを語るとき、富岡さんの表情は一段と生き生きとしてくる。御牧ヶ原の台地には、300以上のため池が点在する。雨が少なく、水に乏しいこの高原で農業を続けるため、先人たちは立科町の女神湖から約60キロにおよぶ水路を引き、サイフォンの力で台地へ水を届けた。その水が田畑を潤し、御牧ヶ原を一大農業地帯へと押し上げていった。
「先人の苦労と知恵がなければ、御牧ヶ原はここまでにならなかった。その水を今も私たちは使わせてもらっています」
テロワールは、土と気候だけで完結しない。そこには、水を引いた人の手があり、農業を諦めなかった人の知恵があり、その上で暮らしを続けてきた人々の時間がある。いま畑で働くスタッフ、生産農家、ワインを飲む人、そしてここを訪れる旅人もまた、その時間のなかへ加わっていく。
「テロワールは土壌や気候だけじゃなくて、歴史と文化と人の手が合わさったもの。ワインは何も添加しないからこそ、作り手の個性が滲み出る。飲んだ時に、その人が見える。そういうものだと思っています」
富岡さんは、ワインを土地の産物としてだけではなく、人の営みが映るものとして見ている。畑の個性、農家の仕事、醸造家の判断、土地の歴史。それらは別々に存在しているのではなく、一本のワインのなかで重なり合う。だからこそ、ワインを味わうことは、土地の背景を読むことにも似ている。
土地は、ただそこにあるのではない。誰かが手を入れ、受け継ぎ、見守り、時には失敗しながら、土地になっていく。ワインとは、その過程を一時的に瓶の中へ閉じ込めたものなのかもしれない。だからこそ、ジオヒルズのワインには、完成された答えではなく、これから深まっていく問いの気配がある。
畑が教室になる――未来へ繋ぐということ。
富岡さんが情熱を注いでいるのは、ワインをつくることだけではない。地元・小諸の子どもたちとともにブドウを育て、ワインが生まれるまでを体験する「ワイン文化を未来へ繋ぐ会(Connect to the Future)」は、ジオヒルズワイナリーの哲学をもっともよく表す取り組みのひとつ。
このプロジェクトでは、小学生と高校生がグループを組み、ムニエの畑に通いながら、ブドウの世話、収穫、仕込み、ラベルデザイン、販売までを体験する。高校生は文化祭での販売やアンケート調査を通じて、マーケティングにも関わる。ラベル制作にはジオヒルズのデザイナーがプロとして伴走し、子どもたちの発想を一枚のデザインへと結びつけていく。
「先輩が植えた木を、翌年は下の学年が育てる。そうやって世代を超えてつながっていく活動です」
ここで大切なのは、子どもたちにワインを「知識」として教えることではない。まだ甘くなる前のブドウを口にし、苦さに驚き、数か月後に同じ実が糖を蓄えていく変化を知る。土に触れ、葉を見て、房の重さを感じる。ラベルを考え、誰かに届ける言葉を選ぶ。その一連の体験を通じて、ワインは遠い大人の嗜好品ではなく、自分たちの暮らす土地から生まれるものへと変化する。
「子どもたちに聞くと、ワインといえばボトルに入ったものしかイメージできない。ブドウがどう育つかも知らない。だからまず、甘くなる前のブドウの実を食べさせるんです。めちゃくちゃ苦いんですけど(笑)。これが数ヶ月後にこれだけ甘くなるんだよって。見て、触れて、体験してこそ伝わるものが、きっとある」
長野県は全国有数のワイナリー数を誇る地域になった。一方で、富岡さんは「地元の人が日常的にワインを飲んでいるかというと、そうではない」と感じてきた。ワイナリーが増えることと、ワイン文化が根づくことは同じではない。文化とは、特別な日に外から眺めるものではなく、日々の暮らしのなかで少しずつ自分ごとになっていくものだからだ。
「Connect to the Future」は、未来を一方的に託す言葉ではない。大人が未来を語り、子どもがそれを聞くのではなく、同じ畑に立ち、同じ木を見ながら、時間を共有する。そのなかで、子どもたちはワインのつくり方だけでなく、土地を観察する目、誰かと協働する感覚、形のないものを商品や表現へ変えていくプロセスを学ぶ。
ラベルのロゴにも、その思想が込められている。ブドウの房を逆さにしたシンボルは、一粒一粒が色づく「ベレゾーン」という成長の瞬間と、子どもたちそれぞれの個性が未来へ続いていくことを表している。成熟は、ある日突然訪れるものではない。昨日と今日の小さな違いを積み重ねながら、ある時ふと色が変わる。その変化を見逃さない眼差しこそ、畑が教えてくれるものだ。
「ワインは1代で終わる産業じゃない。ブドウの木は100年以上生きる。次の世代に引き継いでいくことが、ワイン文化をつくることだと思っています」
ジオヒルズワイナリーにとって、未来とは遠くに掲げる理想ではない。苗木を植え、枝を整え、実を待つ、その手の動きの延長にある。誰かが植えた木を、次の誰かが育てる。まだ飲むことのできない子どもたちが、いつか大人になり、自分の暮らす町のワインを誇らしく思う。その日まで続いていく時間を、富岡さんは畑の中で少しずつ醸している。
旅する人が、ワインの背景に出会う。
一日のうちで最も好きな時間はいつですか、と尋ねると、富岡さんは迷わず答えた。
「明け方と夕方です。日の出が向こうから上がってきて、夕方は隣のため池の方へ沈んでいく。始まりと終わりの時間というか」
御牧ヶ原の朝は、風の音から始まる。日が昇るにつれて畑の輪郭が浮かび、ブドウの葉に光がのる。夕暮れには、ため池の水面が空の色を映し、丘全体がゆっくりと静まっていく。街灯の少ない夜には星が近く、季節が進めばカエルの声が響く。
「毎日見ているのに、毎日少しずつ違う。ブドウもそう。そういう変化と向き合いながら、一本一本の木の個性と対話しています。ここにいると時間の流れがゆっくりで、自分と向き合える。ベトナムもそうでしたが」
変化は劇的ではない。雲の流れ、風の湿り気、葉の角度、房の張り。目を向けなければ通り過ぎてしまうような小さな違いが、日々の判断を支えている。醸造家の仕事は、自然を思い通りにすることではなく、自然が発しているかすかな合図を受け取り、その年にできる最善を選ぶことなのだろう。
富岡さんは、「ワインが旅をするのではなく、旅をするのは人間だ」と語る。ワインが段ボール箱に入って遠くへ運ばれることよりも、人がこの場所を訪れ、ブドウが育った環境を見て、その土地でできたワインを飲むこと。そこに大きな価値があると考えている。
「ここに来て、畑を見て、私の話を聞いて、この場所でつくったワインを飲んでもらう。それが一番の価値だと思っています。同じワインでも、ここで飲むのと離れた場所で飲むのとでは、きっと全然違うはずですから」
ワインは瓶に詰められ、町の外へも届いていく。けれど、その味わいの背景にある風、光、水、土、草、虫、そして人の声は、やはり現地でしか出会えない。御牧ヶ原の丘に立ち、千曲川を見下ろし、ため池のほとりを渡る風を受ける。その体験があって初めて、グラスの中の香りは風景と結びつく。
「ワインを作るのは人間なので。美味しいワインだと思ったら、そのワイナリーや作っている人を調べてもらうと、より深く関心が出てくると思うんです」
この言葉には、富岡さんの人生観がよく表れている。ワインを単体で評価するのではなく、その背後にある人の考え方や暮らし、土地との関わりまで含めて味わってほしい。だからこそ、富岡さんは畑に立ち、訪れた人に語り、自分の言葉でこの土地の時間を手渡す。
ジオヒルズワイナリーも、ジオヒルズのワインも、富岡さんひとりのものではない。父が始めたブドウ栽培があり、その前には御牧ヶ原を農地として切り拓いた先人がいる。いま働くスタッフがいて、生産農家がいて、ここを訪れ、飲み、記憶していく人がいる。さまざまな歴史と人の関わりの上に、一本のワインは成り立つ。
千曲川は、眼下で光の帯のように流れている。草は風に揺れ、遠くの山並みはかすかに霞む。この台地に根ざし、先人の知恵を受け継ぎ、生産農家とともに歩み、子どもたちの未来へとつなごうとしている醸造家がいる。ジオヒルズワイナリーのワインは、御牧ヶ原の過去と現在、そしてまだ見ぬ未来を、一本のボトルのなかに静かに宿している。
〈ジオヒルズワイナリー〉
〒384-0807 長野県小諸市山浦富士見平5656 TEL:0267-48-6422
cafe営業時間:10:00〜16:00(ランチ 11:30〜14:00) 営業日:土・日・祝日
公式サイト:https://giohills.jp/
「ワイン文化を未来へ繋ぐ会」
活動詳細:https://www.instagram.com/wineculture2021/
制作:エディトリアルワークス
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