時間の堆積に心を癒す「別所温泉」
年が明けてからというもの、何かと忙しない日々が続いていた。表面をなぞるようにタスクをこなし、なんだか空回りしている気がする。
いったん現実から離れ、一息つこう。そう思い立ち、向かったのは上田市の別所温泉。1400年もの歴史を持ち、古くから信仰を集める寺院が点在する、情緒ある温泉地だ。
せっかくならと、鉄道に乗って行くことにした。上田駅からローカル線の上田電鉄別所線に乗る。
ぼーっと車窓を眺めていると、だんだんと視界が開けて、雄大な独鈷山の山並みと田畑が広がってきた。田植えに向けて田起こしが始まったであろう田んぼ、山々の緑色も少しやさしい色合いになっている。気づけば確実に春が近づいているのだ。そんなことも見落としていた。窓枠というフレームが、移ろいゆく季節の変化を知らせてくれる。

風景に癒されながら列車に揺られること、およそ30分。あっという間に終点の別所温泉駅に到着した。たったの30分だが、列車の移動が背負っていた日常を遠ざけ、しぜんと自身のスイッチがオフになっていることに気がつく。
出迎えてくれた別所温泉駅は、ミントグリーンのような色合いと、大正ロマンを思わせる駅舎がとにかくかわいらしい。思わず胸がときめいて、ペンを走らせる。レトロな駅名標や地元酒造の看板などからも、旅情を感じさせてくれた。
茶房まるげん
駅を出て、温泉街へは民家が軒を連ねる緩やかな坂道をしばらく上っていく。この地に暮らす人々の息づかいを感じながら歩いていると、左手に趣ある古民家が現れた。「茶房まるげん」と看板が下がっている。
ちょうど喉も乾いたところで、引き寄せられるように木製のガラス戸を引いて中に入ってみた。太い梁に柱など木の温もりに溢れた店内に、壁一面の窓ガラスから明るい光が差し込んでいる。振り子時計などのアンティークな装飾も、店内を暖める薪ストーブも、整然と設えられていて、ほっと安らげる居心地の良さがある。
興味深く店内を見回している私に、「古いものがたくさんあるでしょ。ここは大正12年の建物で、元は薬局だったのよ」と、店を切り盛りする優しい笑顔のお母さんが教えてくれた。しばらく閉めていた建物を一部改装し、定年を機に2012年から喫茶として生まれ変わらせたそうだ。

名物のあんみつをいただく。手作りだという寒天に豆乳白玉、あんこ、黒蜜。そこにりんごやバナナ、みかんにキウイといったフルーツがのり、ほうじ茶と漬物がついてくる。それぞれのやさしく控えめな甘さが素材を引き立て合い、おいしい。ほうじ茶が落ち着く。
ひっきりなしにお客さんが訪れる。アメリカから旅行で訪れたという3人組に、他の席に座っていた地元の方が旅のプランを考えてあげていた。観光地ならではの、一期一会の交流に心が和む。大切に守られてきた空間も、そこに流れる時間も、味わいも、すべてがじんわりと温かく心に染み入るようだった。
北向観音
店を後にして再び坂道を歩き出す。ほどなくして川の音が聞こえ、ほのかに硫黄の香りが鼻を掠めてくると、旅館が建ち並ぶ温泉街が見えてくる。
すると左側に「北向観音」の看板と大きな寺標が現れた。階段を下って川に架かる石橋を渡り、両脇に食堂や土産店などがひしめき合う石畳の参道を通って再び階段を上ると、北向観音にたどり着く。なかなか特徴的な地形である。

北向観音は天長2年(825年)、慈覚大師円仁によって開創された。厄除けの御利益で知られるほか、全国的にも珍しくお堂が北向きに建立されており、南向きの善光寺と向き合うように配置されているのだそう。北向観音は現世利益、善光寺は未来往生を願い、片方だけのお参りは“片詣り”といわれ、江戸時代半ばから両方へのお参りが盛んに行われたのだとか。
そのエピソードを裏付けるように、本堂に奉納されている絵馬には、北向観音で厄除札を受けた旅人が、弘化4年(1847)の善光寺の御開帳へ向かう途中、善光寺地震に遭遇した際に、このお札が身代わりとなって災難を逃れたという伝説が描かれていた。
境内から湧いているという、珍しい温泉の手水で手や口を清める。まだ肌寒い季節なので、温かさにほっとする。2025年に行われた御開帳の名残を惜しむように、前立本尊の御手と結ばれた回向柱が今も立っていたので、有り難く触れさせていただいた。
本堂に入ると、厳かな雰囲気と漂う線香の香りに、思わず背筋が伸びる。時代や社会をとりまく状況は変わろうと、何百年と人々はここでこうして手を合わせ、自身や身の回りの人々の幸せを願ってきた。そんな大きな時間の流れと、無数の祈りの重なりの中に今、自分がいる。ただその尊さに感謝が湧き、心がどんどんと静まっていく。
お参りを終えると、高台にある境内からは澄みわたる青空と、上田市街を取り囲む山並みが広がっていた。あまりの清々しさに、すっかり気も晴れわたっていた。
島屋菓子舗
本堂の裏側へまわり、緑の木立を横目にふらりと歩いていたら、「島屋菓子舗」という菓子店を見つけた。「厄除まんじゅう」の文字を見つけ、気になって入ってみる。
昭和13年(1938)から続く店で、厄除まんじゅうは北向観音の厄除けの御利益にちなんで生まれたという別所温泉の名物だそう。「毎朝手作りで、旅館に卸したり参拝客を出迎えたりするため、朝7時から年中無休で営業しています」と聞き、そのひたむきで実直な姿勢にぐっときてしまった。行けば必ずそこにあるという安心感は、なんとも心強い。

もちろん購入し、さっそくいただく。黒糖が入った茶色のふわふわでもちっとした生地に、ぎっしりとなめらかなこし餡が詰まっている。店を営むご家族の謙虚な姿と重なるような、素朴で上品な甘さ。おみやげにと、多くの観光客が訪れるのも納得のおいしさだった。
大師湯
北向観音の参道へ引き返し、温泉街へと戻っていく。締めくくりは温泉だ。別所温泉には3つの共同浴場と日帰り温泉施設が一つあるが、今回はその中から「大師湯」へ行くことにした。
その名からも連想される通り、慈覚大師円仁が北向観音を建立した際に、好んで入浴していたのだそう。屋根に千鳥破風や唐破風が付いた木造建築で、歴史を感じる。
券を買って番台の方に渡す。中は脱衣所と浴室のシンプルな造りで、5名ほど入ればいっぱいになってしまいそうな浴槽と、洗い場には温泉と水が出る蛇口があるのみ。古きよき昔ながらの共同浴場である。滝口からはどばどばと勢いよく掛け流しの源泉が注がれ、浴槽は常に新鮮な湯で満たされていた。
地元の方々の世間話に耳を傾けながら湯に浸かると、熱すぎずぬるすぎずで、心地よい。疲れも抜けて、心も体もすっかり生まれ変わったように満たされていた。

悠久の歴史に包まれながら、厄を除け、温泉に入って不要なものを洗い流す。連綿と受け継がれる営みや自然の中に身を投じて、この地に来る前のそわそわと落ち着かなかった思考はいつしか消えていた。
また、目の前のものを掬い取り、じっくりと味わいながら一つひとつを丁寧に写し取る行為は、見過ごしていた日々の美しさや豊かさに改めて気づかせてくれた。同時にそれは、今ここに立ち返り、散らばっていた自分自身を取り戻していくような時間でもあった。
茶房まるげん
住所:上田市別所温泉1718
営業時間:11:00〜16:30(16:00LO)
定休日:不定休
北向観音
住所:上田市別所温泉1656
開門時間:7:00~16:00(御朱印・御守の授与は8:00〜)
島屋菓子補
住所:上田市別所温泉1683-6
営業時間:7:00〜17:00
定休日:無休
大師湯
住所:上田市別所温泉1652-1
営業時間:6:00〜21:00(最終入場20:30まで)
定休日:木曜
取材・文・イラスト:佐藤妃七子
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