
梅雨の前なのに、すごく暑い。地面の近くがゆらゆらしている。30度。車載温度計の数字を見て、どうりで、と思う。急に上がった最近の気温に慣れていないから、汗をうまくかけない。こういう時は、無性にスパイス料理を食べたくなる。スパイス料理が暑い国の食べ物だからだろうか。定かではないけれど、とにかく昔からそうなのだ。
権堂商店街から西鶴賀町に向かう横断歩道で信号待ちをしていたら、前にいた赤ちゃん連れの女性に隣の高齢女性が話しかけた。かわいいわね、と笑いかけるその顔を直接は見なかったけれど、声で表情を想像する。風が吹いて、背中に滲んだ汗が少し冷えた。信号が変わって、みんなそれぞれの目的地へと歩く。
『スパイス バル ガンビール』、はじめて開く扉の先。きっと好きだと思います、とすすめてもらった店にいく時は、どうしても心躍る。誰かの好きなもののお裾分けはいつだってうれしい。
元スナックだったという店は、カウンターが5席、テーブルが2つ、店主ひとりで切り盛りしている。いらっしゃいませ、という声と同時に店内に置いてある水槽が視界に入り、その涼しげな様子に惹きつけられた。小さな魚がふわふわと泳いでいる。ハオコゼという種類の魚らしい。絶え間なく動くその姿を目で追いながらも、促されるままカウンターへ向かった。

店内の手書きメニューには、店主の人柄が滲み出ている。最近は人の手で書かれた文字に少し飢えていて、じっくりと味わうようにメニューを読んだ。肉・魚・野菜の選択肢と甘口から辛口までをバランスよく網羅した4種類のカレー。悩ましい。3〜4日ペースで変わるというから、もしかしたら、一期一会かも。そう思うと俄然、選ぶモチベーションも上がってくる。それにしてもお腹が空いた。汗はまだ引かない。
カレーの説明の中に見たことのない単語が書いてあるのを見つけてしまい、そんな自分を少し恨んだ。パンチフォロン。初めて出会う単語だ。試しにその響きを、脳内で反芻してみる。軽やかで、少し丸みを帯びた感じ? こんな風に、想像がつかないものを、想像する時間が楽しい。どうやら、5種類の香り系スパイスのことを指すらしい。一体どんな味がするのだろう。
いくつか注文をして、待っている間に再びハオコゼを眺めた。

店内には私しかいなかったので、思う存分魚を鑑賞する。この子達は、何を考えながら泳いでいるのだろう。正面から見る顔は、なんだか間が抜けて憎めない。しかし飼うには少しマニアックな感じもする。育てるのが難しそうだ。
店主に尋ねると熱帯魚が趣味で、家ではもっとたくさんの種類を飼っているという。ふと、小さい頃に飼っていたキラキラした魚たちを思い出した。水槽の中の泡がぷくぷくと踊り、照明の光が反射する。その瞬間、スパイスのいい香りが漂ってきた。
席に戻り程なくして出てきたのは、コロンとした形のサモサ。どことなく、先ほどまで見ていたハオコゼに似ている。サモサの中には新じゃがと紫蘇、そして横に添えられたパクチー・ミント・グリーンチリの入ったミントチャツネ。つけて食べると、鼻に爽やかな香りが抜けた。気づけばさっきまでのじめじめとした汗も落ち着いて、口の中は清涼感に溢れている。

さくさくとサモサを食べながら、つい座っているカウンターから見える厨房に目が向く。職人が仕事をしている様子を見ると、見えていないものが見えているのだろうな、といつも思う。きっと料理人なら同じものを食べても、もっと色々なものを舌で感じられるのだろう。素材とか、食感とか、味とか、温度とか、あとは私の想像すらできないものとか。でなければ、こんなに複雑な味を作れやしない。
私が過ごしているのは、私の見える世界の範囲だけ。つい忘れてしまうけれど、たまにこうやって思い出す。ステンレスの壁にかけられた鍋やお玉を見ていると、なぜかわくわくした。

次々に料理が運ばれる。この日は2種類のカレーを頼んだ。ひとつめの魚のカレーは、“マチャール・ジョール”。東インドはベンガル地方のもので、マスタードやココナッツと例のパンチフォロンが入っている。一口目から、印象的。今までに嗅いだ事のない香りがして、胸が高鳴る。ナンをちぎってつけて食べると、ゴロゴロとした具がたくさん入っているのに気づく。続けて食べると辛さが巡り、引いた汗が再びじわりと染み出した。
もうひとつは野菜のカレー、“カボチャのクットゥー”。豆とココナッツの優しいカレーはほっとする味で、なんだか落ち着く。焦る気持ちを抑えながら、合間にラッシーを流し込んだ。カレーはもちろん副菜もたくさんあって、見た目にも味にも、色とりどりなのがうれしい。贅沢な気持ち。

食べた事のないものを見かけたら味わってみないと気が済まないという性格のせいで、旅先でも食い倒れツアーになることがしばしばある。海外では市場にできるだけ立ち寄りたいし、地元の人が行くスーパーマーケットを物色するのも楽しい。そして結局、どう使うかわからない調味料を買ってしまう。
いつでも食べたことのない味に出会いたいと思っている。この日も、そんな私をどうしても掻き立てるメニューがあった。カレーもサモサも頼んでいるのだから、多いのはわかっている。でも今を逃したら一生食べられないかもしれない。それが、山菜のビリヤニ。
こごみ、のびる、たけのこ、山うど。長野県ではお馴染みの山菜たちとスパイス香るビリヤニの出会い。予感がしていた。その予感に違わず、山菜のビリヤニは私史上一番のビリヤニとなった。あいにくもう数日で違うメニューに変わってしまうのだそうだけれど、それもまた。もう会えない人との思い出は、いつだって美しいままだ。
高揚した背中に、再び汗が流れていた。

「新しいスパイスを見つけたら、あ、こんなのあるんだ、ってうれしくなりますよ。」
店主にスパイスのことを質問すると、マニアックな答えですみません、と言いながら丁寧に色々なことを教えてくれた。好きなことを話す人との会話は楽しい。そういう時、人はどうしたって生き生きとしてしまうものだから。
ハオコゼは4分の1を海水にしないと長期飼育できないという。きっと人間だって、自分に合う空気のところにいたほうが、いいに決まってる。そういえば小さい頃買っていたキラキラ魚たちは、しばらくすると死んでしまった。水が合わなかったのだろうか。

店には本場インドの人々も、よく食べにくるそうだ。固定概念にとらわれない新しいスパイス料理を若い人たちは気に入る一方で、年配の人たちは前衛的な味に難色を示すこともあると教えてもらった。なるほど、どこの国でも同じなのだと思うと同時に、人間の性(さが)からは逃げられないのかと、少し恐ろしくもなった。
海外に行って、ジャパニーズスシロールを食べているところを想像してみた。一体その時、どんな反応をするだろう。できればいつまでも、新しい味をおもしろがっていたい。最後に少しだけ残ったラッシーを飲みながら、そう思った。

【店舗情報】

『スパイス バル ガンビール』
昼はカレー、夜はビールやワインと共に料理を楽しめるスパイス料理屋。15年にわたりシンガポール・インド・タイ料理店で腕を振るった店主はスパイス一筋。インドの伝統をベースにしながらも固定概念にとらわれないメニュー、地元の旬の食材との融合から出来上がる新しい味も見逃せない。
(今回ご用意いただいたのは特別メニュー。ビリヤニとサモサは夜のみ。ランチのカレー単品はありませんのでご了承ください。)
https://www.instagram.com/spice_bar_gambheer/
取材・撮影・文:櫻井 麻美
<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、エッセイスト。世界一周したのちに、日本各地の農家を渡り歩き、2019年に東京から長野に移住。ウェブや雑誌での執筆のかたわら、旅と日常をテーマにZINEなどの個人作品も出版している。
https://www.instagram.com/tabisuru_keshiki
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