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<COLUMN>ナガノフライヤー No.3 新しいジブン発見旅ー櫻井麻美のニチコレ(日日是好日) 第1話「自然あふれる祈りの場へ……日常から抜け出す旅」

雄大な自然と共にある「祈り」の場。宗教にとらわれず身近に祈りを感じるたびに出てみませんか。

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もっと身近な「祈り」へ

「祈り」という言葉を聞いたとき、宗教的な儀式や、厳かな雰囲気の神殿などを思い浮かべ、近寄りがたいと感じるかもしれない。でも、もう少し気軽に。カジュアルに。身近に関わりあるものとして考えてみたい。

 

私は旅をするときに、好んで立ち寄る場所がある。それが、祈りのある場所だ。特に信心深くもないし、訪れる場所は特定の宗教に限っているわけでもない。じゃあ、何にそんなに惹きつけられるのだろう?もしかしたら、その場の独特な雰囲気かもしれない。ちょっとかしこまった服を着ていく神殿、はたまたそこらへんに人々がたむろしながら集まる憩いの場。いろいろな趣の祈りの場があるが、どんな国や地域でも、そこには共通して感じる雰囲気がある。

 

それは、雄大な自然を目の前にした時の感覚に似ている。美しさに心を奪われると同時に、その力強さに畏れさえ抱く。多くのものを与えてくれるが、同じように奪うこともある。そんな自然を目の前にして、きっと誰しも一度は思う。「自分はなんてちっぽけな存在なんだろう。」これだ、この感覚だ!私が祈りのある場で感じるものは。

 

人々の手に及ばないものに対する願いや畏怖の気持ち。どうにかできないものは、やっぱりこわい。力が及ばないものには、自然とひれ伏したくなる。昔も今も、それはきっと変わらない。 はるか昔から人々が積み重ねてきたそんな思いが、祈りの場にはある。その中にひとたび身を委ねれば、雄大な自然や悠久の時にいる自分を感じることができるのではないだろうか。

 

日常にどっぷり浸かっていると、つい忘れてしまいがちな「ちっぽけな自分」を思い出す。もっと身近に。自分自身の存在を見つめる場として。祈りの場へ出かけてみよう。

杉の大木と美しい苔に包まれた古刹_「貞祥寺」

佐久市を通る国道141号から横にそれた一本道の先にどっしりそびえる森。その麓に貞祥寺の入り口があらわれる。一歩足を踏み入れると、ひんやりした空気を全身に感じて身が引き締まるような思いだ。500年程前に開山されたケヤキやスギの大木に囲まれた曹洞宗の寺であるが、特筆すべきは苔の美しさ!滑らかに地表を包む苔と石畳は、見ているだけでトゲトゲしていた心がなめらかになる。

入り口で変わる空気を体で感じる

駐車場から登るとすぐに本堂にアクセスできるが、一度麓の道へ降りて正面から入ってみよう。石段を登りながら、立ち止まって耳を澄ませてみると、そこにはいろいろな自然の音が聞こえてくる。木々が揺れる音。鳥のさえずり。なんて清々しいのだろう! 目に映る景色はあたり一面緑色。前後左右はもちろん、頭上もすべて緑に覆われると、自分も緑色になれる気がしてくる。手のひらを見て、いつどおりの色であることに軽くがっかりしながら奥へ進む。

 

貞祥寺は七堂伽藍(寺に必要とされる建物)が全て揃い、中には茅葺き屋根もある。苔や石と調和しながら佇む姿は、それだけで私たちに大切なことを教えてくれるようだ。 また、人間魚雷「回天」の創始者の出身地でもあることから、戦没者に哀悼を捧げ、平和を願う碑が建てられている。その前に立ち遠くない過去へ思いをはせれば、私たち人間のあるべき姿についても考えさせられる。

 

月2回の早朝座禅体験会が開催されており、宗教を問わず誰でも参加できる。朝の澄んだ空気の中で行う座禅は、忙しい日々でぐちゃくちゃになった頭の中をニュートラルな視点で見つめられる体験だ。

 

帰りがけに石段の上から見る抜けた空の景色に目を奪われる。つい忘れてしまいがちな、繰り返す日常の中にある美しさを思いだす。

 

*詳しくは《佐久市ホームページ》

 

崖の上にそびえたつ空中楼閣は圧巻!_「鼻顔稲荷神社」

佐久市岩村田にある鼻顔稲荷神社。遠くからでも思わず二度見してしまうような、崖の上に立つ真っ赤な社殿が、その確固たる存在感を物語っている。500年ほど前に京都の伏見稲荷大社から分霊したと伝えられ、日本の五代稲荷に数えられる場所でもある。とはいえ、普段は地域の人に愛される静かな神社だ。

緑に囲まれた境内

ひっそりと佇む入り口に立つと、自然と「お邪魔します」とあいさつしたくなる。鳥居の先にあるうっそうとした緑の中は、私たちの住むところとは違う空気感だ。さらに奥に続くたくさんの鳥居が目を引く。くぐってしまうと、どこか知らない場所にたどり着いてしまうのではないか。チラチラ後ろを振り返りながら、崖の上にある社殿をめざす。 神社内にある昔ながらのレトロなベンチや看板などが独特な雰囲気を醸し出すのを横目に、ひらけた社殿へ進む。社殿は2015年に改修されたばかりで、とても明るい。

 

木の床を踏みしめながら、目が行くのは窓から見える景色だ。すぐ前に流れる川と広がる空が一望でき、先ほどまでとは打って変わって開放感にあふれている。鮮やかな社殿の赤と、空の青、木々の緑のコントラストが美しい。昔の人々も、同じようにここから景色を見ていたのだと思うと、不思議な気持ちになる。岩村田は中山道が通る町。当時はどんな景色だったんだろう。

 

奥に進むと本殿があらわれる。崖にめり込むように祭られており、その厳かな雰囲気に誰しも首を垂れたくなるような、凛とした空気が張りつめる。油揚げのお供え物が置いてあり、狐をモチーフにした置物もたくさん供えられているので、ああ、ここは稲荷神社だと実感する。色んな表情の狐がいる。見ているだけでも飽きない。神様に怪しまれるといけないので、後ろ髪を引かれながらも社殿を後にする。

 

鳥居の道と二股に分かれた上に続く道を行くと、ピースフルな公園があらわれる。ほっと一息ついて休憩するのにちょうど良い。私たちの世界に戻ってきた、という実感があふれる。子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿がまぶしい。

 

取材の際、同じ子どもたちと何度かすれ違った。境内をぐるぐるしていたのだろうか。親が一緒でないのと、年齢や背格好もちぐはぐで少し気になったが、気づくと姿が見えなくなっていた。

 

帰りしな、もしかしたらあの子たちは狐が化けた姿なのでは。と頭をよぎった。あり得る。化けた狐なんて見たことないけど、なぜか納得できる。その真偽はさておき、そんな風に思ってしまうくらい、境内は私たちの世界とは切り離された、不思議な空間なのであった。

 

*詳しくは《佐久市ホームページ》

 

にぎやかの先にある安らぎ_「軽井沢ショー記念礼拝堂」

オンシーズンには人があふれる旧軽井沢銀座の先にある軽井沢ショー記念礼拝堂。カナダ生まれの宣教師、A.C.ショー氏によって創設された軽井沢で最初の教会だ。にぎやかな商店街の脇にあるショー通りを通って礼拝堂をめざすと、緑あふれる静かな道の先にその建物がある。軽井沢らしい霧、しっとり濡れた木々、砂利を踏む足音。目的地に赴くまでの道も、旅の醍醐味の一つだ。

賑やかな観光地の奥にある静かな礼拝堂

礼拝堂も緑の中に静かにたたずんでいる。建物は、先ほどまでの観光地のきらびやかさとは一線を画すシンプルなものだが、遠くからでも100年の歴史を見てきた重厚感がある。 奥には洋風別荘としては初めての建築であるショーハウス記念館があり、当時の生活を垣間見ることができる。窓の外の木々の隙間から差し込む光が部屋の調度品に映り、壁に掛けられたモノクロ写真に気付く。ついさっき通った道で撮られた100年以上前の写真。人々の服装から完全に違う時代だと見て取れるが、同じ風景の中でほほえむ姿に変わらない人の温もりを感じる。この人たちが、確かにここにいた。今と同じように家族や友人と何気ない会話をして過ごしていたのだ。

 

礼拝堂は通常時は奥までは入れないが、入り口付近から見る景観が印象的だ。木で組まれた天井は高く、その開かれた様子から歓迎されているような感じを受ける。当初は夏限定の解放だったので、コテージ風のつくりになっているそうだ。私はクリスチャンではないので教会にあまり来る機会がなかったが、そんな人にも気軽に立ち寄ってほしい、と司祭の江夏さんは言う。

 

「お祈りとは、対話。駆け引きをするのではなく、誰かのために祈ったり、時間を使うことは、とても大切なこと。でも堅苦しく考えず、ショー氏がここを『屋根のない病院』と呼んだように、この場所を心と体を休める保養地として利用してほしい。」

 

教会の歴史はここへ来る信徒さんの歴史であるとも教えてもらった。いま礼拝に来る人も、すでにこの世を去った人も、全ての人たちが共に「いる」。そして作り上げてきた場所。その話を聞いて、この礼拝堂が持つ、どっしりと根を張るような存在感の意味が少し分かったような気がした。

 

*詳しくは《軽井沢ショー記念礼拝堂ホームページ》

 

立ち止まって、考えてみる時間としての「祈り」

祈りのある場所に行った帰り道、私はいつも晴れやかな気持ちになる。なんならスキップして帰りたくなる。そんな気持ちを必死に抑えながら、帰路につく。(でも多分、顔はにやにやしている。マスクはこういう時に役に立つ)

 

日常生活にいると、目の前のことが世界の全てのような気がしてしまう。でも果たして本当にそうだろうか?一度立ち止まって、考えてみる。そうすると、狭い範囲で完結していた自分が徐々に輪郭を広げていく。重要マターだと思えていたあれこれが、急にかわいい出来事に思えてくる。ああ、世界ってこんなに広かったんだ。

 

自分を見つめ、そして背景にある雄大な自然やそこにいる人々を感じ、思いをはせてみる。そのときそれはもう、立派な「祈り」になっているはずだ。祈りが特別なものではなくなった瞬間、ちっぽけな自分が再び歩き出す。軽やかになった心と体で、私たちはまた今日という日を過ごしていこう。

 

 

 

撮影・文:櫻井麻美(Asami Sakurai)

 

<著者プロフィール>
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tariru_yoga/

 

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