
大自然と温泉で、心を満たす。自分と向き合うための宿
まず訪れたのは、標高1500mの乗鞍高原に立つ『温泉の宿 Raicho』。オーナーは『Raicho Inc.』代表であり、乗鞍で自然ガイドも務める藤江佑馬さんだ。千葉県出身の藤江さんは大学で気象学を専攻し、気候変動や環境問題への関心を深めた。気象会社で10年間勤務したのち、温泉と北アルプスへの愛着から移住を決意。宿を営みたいと考えていた矢先、前身である『温泉旅館雷鳥』の元オーナーが後継者を探していると知り、事業を引き継いだ。
外観はそのままに、館内はワークスペースやゲストキッチンを備えるなど現代的にリノベーション。その中で藤江さんがひと目惚れしたというのが、単純硫黄泉の露天風呂だ。加水も加温もせず、源泉かけ流しで天然の乳白色の湯を湛える。四季折々の森の景色と澄んだ空気を背景に、訪れる人の疲れを優しく癒やしてくれる。内湯もまた風情があり、「温泉をゆっくり味わうなら、内湯もお勧めです。どこか瞑想状態に入れるような感覚になる」と藤江さんは語る。どちらも部屋ごとの時間貸し切り制で利用できる。

夕食の提供はなく、乗鞍高原の飲食店で食事するか、食材を持ち込みゲストキッチンで料理するスタイル。自炊を楽しみながら、共有スペースでゲスト同士が交流する場面も多い。
「どの年代の方も大歓迎ですが、とりわけ自然との接点が少ない20〜30代の若い世代の方たちに、乗鞍高原を楽しんでもらえたらうれしい。『温泉の宿 Raicho』でも3泊以上の連泊をお勧めしています。集中して仕事ができるワークスペースもありますし、天気がよければ整備された3つのコースで散策を。疲れたら100%源泉掛け流しの温泉に漬かり、リラックスしたり考え事をしたりするのも、いい時間です」
宿で働くスタッフにも話を聞いた。小林菜月さんは2021年から毎シーズン当施設を訪れ、ワーケーションをしていた元ゲスト。「乗鞍の大自然の中で、本来の自分に還る、というコンセプトに惹かれました。一の瀬草原の、心がゆるむような風景がたまらなく好き」。
また、地方創生の仕事に携わる金子翼さんは登山が趣味で、東京から短期アルバイトとして参加。ふたりは共に、ゴミを出さない工夫や、CO2ゼロの自然エネルギーによる電力のみを使用するなど、乗鞍高原をサステイナブルな地域にしようとする『Raicho Inc.』の取り組みに深く共感している。彼らは、「乗鞍高原で、自然とじっくり向き合う時間を楽しんでほしい」と語ってくれた。

『温泉の宿 Raicho』を拠点に、乗鞍高原を歩いて自然を満喫してほしいと話す、小林さん(左)と金子さん

ミズナラの林に囲まれて、天然乳白色の温泉に浸かろう。温泉は30分ごとの貸し切り(予約制)

硫黄の香り漂う檜風呂。酸性の強い硫黄泉は殺菌作用もある
【店名】温泉の宿 Raicho
住所:松本市安曇4306
電話:0263-92-2746
宿泊料金:1泊1人5,500円~
HP:https://ghraicho.com
Googleマップ : https://maps.app.goo.gl/Md3XtJcQZcoNNe6T8
乗鞍岳の火山が育んだ、一の瀬草原を見守るカフェ
『温泉の宿 Raicho』から車で5分ほど南へ向かうと、山間部には珍しく起伏のない平野、一の瀬エリアが広がる。緑の草原に白樺の木々が点在し、遠くには乗鞍岳。乗鞍らしいのどかな風景が心をゆるませてくれる。
この一の瀬に、2023年夏オープンしたのがカフェ&ギャラリー『KURUMu』だ。もともとこの場所は、人々の営みによって生物多様性豊かな草原が保たれてきた歴史を持つ。その一の瀬草原を未来へ残そうと『Raicho Inc.』の社員や仲間たちが立ち上げたスポットである。
「一の瀬はかつて乗鞍高原の中心部で、牛が放牧され牧歌的な風景が広がっていました。炭焼き小屋があり、畑では蕎麦や蕨が採れ、蕨を溶岩に打ち付けて蕨粉をつくったりしていたそうです。人々の暮らしと自然が共存していた一の瀬草原を、私たちは再生し守っていきたい」と話すのは、スタッフの日野菜美さん。草原は放置すると森林化が進み、貴重な動植物の生息地が失われてしまう。景観を守るためにも、『KURUMu』を通して多くの人にこの豊かな自然環境を楽しんでもらいたい――それが彼女たちの願いだ。
今春から乗鞍で働き始めた横浜出身の肘黒将大(ひじくろ しょうだい)さんは、この地の自然の中にいると気持ちがリセットされ、エネルギーをもらえると語る。
「ここは一の瀬草原の入り口。がっつり登山は無理とか、虫が苦手とかという人にこそ、気軽に来てこの自然環境やカフェメニューを楽しんでほしい。『KURUMu』という名前のとおり、やさしく、ゆったり包み込んでくれるから」

環境問題に興味があった愛媛出身の日野さん(左)。仕事で松本に配属され、「せっかく長野にいるならぐっと深い自然の中にいたい」と乗鞍へ

美しい景観と生物の多様性をつないでいくため、修景伐採された白樺の葉を蒸留した「白樺ソーダ」(550円)。安曇野産米粉でつくる「米粉のキャロットケーキ」(650円)

「白樺のクレムブリュレ」(600円)はとろりとなめらか、後味に白樺の風味が。季節の野草と飛騨山椒などのシロップにミルクを合わせた「のりくら野草チャイ」(650円)
カフェやギャラリーでは、自然の循環を生み出すメニューやアイテムを展開している。草原再生のために伐採した白樺の幼木は、葉を蒸留して香りを抽出したり、乾燥させて煎ったりして、ドリンクやケーキの材料に活用。口に含めば、白樺のほのかな甘い香りがふわりと広がり、心をやさしくほぐしてくれる。
メニューを選んだら、白樺に囲まれたテラスへ。
「ここからの眺めがほんとうに美しくて。晴れた日には訪れた人たちがみんなにこにこして、木漏れ日や風の涼しさを楽しんでいます。雨の日は霧がかかって、神秘的な山が見える。草原に雨粒がポツポツと音を立てて、心が静かになります」(日野さん)。
晴れでも雨でも、この場所ならではの景色と空気を味わいながら、思い思いの時間を過ごしてほしい。

白樺の木々に囲まれた気持ちのいいテラスで、ぼーっと過ごそう

注文は外のカウンターから。白樺の若い枝葉を束ねたヴィヒタが店のあちこちに

ネイチャープラザの建物を改装。ここに車を停めてハイキングに行くこともできる
【店名】cafe & gallery KURUMu
住所:松本市安曇4307-1
営業時間:9:30〜16:00
定休日:水曜(繁忙期は無休)
備考:11月上旬〜4月下旬は冬季休業
HP:https://www.instagram.com/kurumu_norikura/
Googleマップ : https://maps.app.goo.gl/njZ3Vj556GLfdPbB9
お山の恵みをジェラートに。観光拠点『GiFT NORIKURA』でひと休み
『KURUMu』同様『Raicho Inc.』がプロデュースする『GiFT NORiKURA』は、乗鞍観光センターの建物内にあり、登山客をはじめ多くの観光客で賑わう。オープンは2019年。もとあった土産物店が高齢化を理由に閉店することになり、「誰かこの場所でなにかやらないか?」という声に、藤江さんが手を挙げたのが始まりだった。
藤江さんは以前、ニュージーランドを歩く旅に出かけた際、そこで味わったジェラートのおいしさが、乗鞍の風景や澄んだ空気と重なる感覚を覚えたという。そこで、この店の看板メニューにジェラートを据えることに決めた。フレーバーは4〜5種類あり、乗鞍高原で飼育されるヤギのミルクを使った「のりくらやぎミルク」や「アルプスブルーベリー」、夏には「国産レモンのココナッツミルク」など季節限定も登場する。
「乳化剤や保存料不使用で、素材そのものの味を楽しんでいただけます。ワッフルコーンも店で焼いているんですよ。シナモンと黒糖入りで、香ばしくてすごくおいしいんです」。そう語るのは副店長の豊泉早希さん。東京出身の豊泉さんは登山に魅せられ、山小屋で働いていた経験を持つ。そこで出会った友人に誘われて乗鞍を訪れ、『Raicho Inc.』の環境への配慮や地域の人の温かさに惹かれ、ここで働くことを決意した。

『GiFT NORiKURA』では、“地産地消”“Going Zero Waste”“お山の恵みに恩返し”の3つをテーマに掲げている。乗鞍をはじめ長野県産の食材を使い、地域の生産者を応援。さらに、プラスチックなど使い捨て容器の利用を減らすことで、ゴミの削減やCO2排出の抑制にも取り組む。加えて、売上の一部を寄付し、乗鞍の環境整備に役立てている。
「私自身、購買行動が変わりました。以前は“安いから”と選んでいたものも、今では“国産かどうか”や“環境に優しいもの”を意識するように。乗鞍を訪れるお客様にもこうした取り組みを知ってもらい、乗鞍高原を好きになってもらえたら」
豊泉さんは、場所柄、乗鞍高原でお勧めのスポットを紹介することも多い。笑顔で「行ってらっしゃい!」と送り出す姿が印象的だ。
「帰りにまた立ち寄ってくださって、行ってきたよ、楽しかったよ、と言ってもらえると、すごくうれしいんです」

珍しいヤギミルクのジェラートは、クセがなく濃厚で後味さっぱり。ダブル750円、コーン+100円

イチゴは今年から乗鞍の畑を借りて、スタッフが育てているという。このほか、フロートやパフェも人気

乗鞍観光センター併設。環境に配慮し、使い捨てではない木のカップとスプーンでジェラートを提供。ドリンクはタンブラー持参で50円引きに
【店名】GiFT NORIKURA
住所:松本市安曇4306-5
営業時間:9:30〜16:30LO
定休日:木曜(祝日は営業、繁忙期は無休)
HP:https://www.instagram.com/gift_norikura/
Googleマップ : https://maps.app.goo.gl/Hu29YaYmgUePZeGf7
雄大な草原の風景と、乗鞍のローカルな味を楽しむ
『KURUMu』から歩いて5分ほど。一の瀬草原の食堂・座望をフルリノベーションし、2024年にオープンしたのが『Local Food Cafe 一ノ日』だ。店主は、乗鞍高原で生まれ育った奥田美穂さん。松本で臨床検査技師として働くかたわら、週末は両親が営む温泉宿・美鈴荘を手伝ううち、地元にカフェがあったらいいと考えるようになった。
「私自身、旅先のカフェでゆっくり過ごすのが好きで。でも乗鞍にはカフェ自体少ない。ちょうど、環境省が座望庵周辺を整備する計画が立ち上がったのをきっかけに、ここを一の瀬草原のランドマークとして生まれ変わらせたいと思ったのです」
建物にはもともと小さな窓がいくつかあったが、草原や乗鞍岳を望む大きな窓へと改装。テーブルに座りながら、外の景色を存分に楽しめるようになった。残雪の山々と萌えるような新緑が広がる春、生き生きとした緑がまぶしい夏、そして乗鞍岳から高原へと少しずつ降りてくる色とりどりの紅葉が織りなす秋のグラデーション……。
「乗鞍高原は四季がはっきりしていて、どの季節も飽きることがないんです」と奥田さん。いつ訪れても、心躍るような忘れられない光景が迎えてくれる。

乗鞍出身の奥田美穂さん。「晴れの日はもちろん、雨にけむる山や空の眺めもまたいいんです」。奥にいるのがスタッフのしげ子さん

建物前のデッキは環境省により整備されたもので、誰でも利用することができる

大きな窓の正面に乗鞍岳が見える。天井が高く開放的
春は山菜摘み、秋はキノコ採りと、乗鞍の山の恵みを存分に慈しむ奥田さん。『Local Food Cafe 一ノ日』では、こうした地元食材を使い、地元の人たちが日常で味わうような滋味豊かな料理を提供している。
「季節ごとに山で採れたものを保存しておき、それを調理してお出しするのも、乗鞍の食文化を伝えることにつながると思うんです。乗鞍にお嫁に来て40年になるスタッフのしげ子さんに、たくさん教えてもらっています」

メインと郷土料理のお惣菜5〜6種、デザートまで付く「一ノ日プレート」(1,760円)。ほか季節のカレーやスイーツ、ドリンクも充実

「乗鞍高原の大自然を感じる一の瀬草原で、一日の素敵なひとときを」がコンセプト。ロゴは地元のデザイナーに依頼したもの
【店名】Local Food Cafe 一ノ日
住所:松本市安曇4307-4
電話:090-6259-0638
営業時間:10:00〜16:30(16:00LO)
定休日:火曜
備考:11月上旬〜4月下旬は冬季休業
HP:https://www.instagram.com/ichinohi_local_food_cafe/
Googleマップ : https://maps.app.goo.gl/XDKBQhUHXPx5GVhC8
清流のほとりのサウナでリラックス。乗鞍土産に絶品バウムクーヘンを
最後に紹介するのは、ゲストハウス『B&Bテンガロンハッ』。宿泊客以外も貸し切りで利用できる、清流沿いのアウトドアサウナで注目を集めている。オーナーの宮下了一さんは松本寄りの旧安曇村出身。冬にスキーで訪れていた乗鞍に魅了され、1985年に妻とともに宿を開業した。約5年前、宿の裏を流れる小大野川のほとりでテントサウナを始めたところ、その圧倒的な心地よさに魅了される人が続出し、本格的なバレルサウナを導入した。
「サウナの中にいながらにして清流が見える、このロケーションはなかなかないですよね。せせらぎの音、目の前に広がる森の緑、そして冬には一面の雪景色を独り占めできます。フィンランドでは湖のほとりにサウナがあるように、どれだけ自然に近づけるかが大切。体だけでなく、心まで整えてくれるのがサウナですから」
サウナでたっぷり汗をかいたあとは、山の湧き水を引き込んだ水風呂へ。そのまま高原の澄んだ外気に身を委ねれば、このうえないリラックスタイムが訪れる。
『Sauna N+』は1日3組限定・3時間貸し切り制。このスタイルも人気の理由だ。
「3時間って長いようでいて、もっといたい、また来よう。という方が多くて。東京からわざわざこのサウナに入りに、日帰りで来られるリピーターの方もいらっしゃいます。プライベート空間なので、お子様連れでも気兼ねなく楽しんでもらえます」

オーナーの宮下了一さん(左)と、乗鞍に戻ってバウムクーヘンづくりに励む息子の祐介さん

すぐ裏に清流が流れる素晴らしいロケーションの『Sauna N+』。料金は3時間貸し切りで2名11,000円、3名16,500円、4名20,000円ほか。詳細はHPにて

サウナの温度は80〜90度。シトラスと白樺のアロマが用意され、香りでもリラックス効果を高めてくれる
テンガロンハット開業30周年を機に、息子の祐介さんが開いたバウムクーヘン専門店『ヤムヤムツリー』も話題を集めている。
「これまで乗鞍らしい土産物ってなかったんです。バウムクーヘンはドイツ語で、バウム=木、クーヘン=ケーキという意味。白樺など美しい木々に囲まれた乗鞍の思い出に、自家製のバウムクーヘンはぴったりだと思いました」と祐介さんは語る。
中学卒業後、ニュージーランド留学を経て東京でさまざまな仕事を経験した祐介さんは、生まれ育った乗鞍に戻り、バウムクーヘン工房を開く決意を固めた。その際、神戸の専門店に出向き、技術を習得。
「でも、最初は全然うまく焼けなくて。標高1300mのこの場所は、神戸と気圧が違いすぎるのが原因だったんです」
そこから気の遠くなるような試行錯誤を重ね、ついにほかにはない、ふんわりとしっとりを兼ね備えた食感にたどり着く。ここ乗鞍高原だからこそ生まれた味わいだ。
時間をかけ、一層一層を丁寧に焼き上げる年輪のようなバウムクーヘン。その層には、宮下さん一家の乗鞍への愛情が、静かに、確かに刻まれている。

サウナを利用した方には、バウムクーヘンとドリンクをサービス。バター味の「ツリー」か、アップルシナモン味の「シラカバ」が選べる

テンガロンハットに併設した『ヤムヤムツリー』で乗鞍土産を選ぼう
【店名】B&Bテンガロンハット、Sauna N+、ヤムヤムツリー
住所:松本市安曇4306-8
電話:0263-93-2360
営業時間:Sauna N+:10:00~20:00(要予約)、ヤムヤムツリー:9:00〜17:30
定休日:水曜
HP:https://sauna.tengallon.jp(Sauna N+)
https://yumyumtree.jp(ヤムヤムツリー)
Googleマップ : https://maps.app.goo.gl/TzCTbVDXtFMouev7A
撮影/宮崎純一 取材・文/塚田真理子 構成:大塚真貴子
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