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新しいジブン発見旅-櫻井麻美さんのニチコレ(日日是好日)第26話『阿智昼神温泉 “和”の文化溢れる旅館で浸る、夢うつつの夜』

山あいの静かな温泉郷、阿智昼神温泉。“和”の風情溢れる旅館で過ごす特別な夜は、私たちの身も心も軽やかにする。ゆったりと流れる時に身を任せ、夢うつつの旅へと出かけよう。

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目的、「宿」 滞在そのものを楽しむ旅

旅。その言葉にどんな印象を持つかは、人それぞれだ。旅、旅行、観光など、どこかへ行くことにまつわる言葉とその定義は、合わさる部分もあれば、異なる部分もある。明確に線引きがされているものではなく、だからこそ、それぞれの言葉についてこだわりを生み出すものなのだろう。同じ旅程を過ごしたとしても、人によってそこから得るものは大きく異なる。故に、言葉の選び方はある程度、主観的なものだと私は捉えている(色々なものを包み込む“旅”という言葉を、私は好んで使う)。
ただ、どこかへ行くことに関しての理由やそこでの過ごし方は一通りではない、ということは、はっきりしている。数ある理由の中でも、私がやっとその魅力に気づいたもの、それが、滞在そのものを楽しむ旅だ。

基本的に落ち着きがない人間なので、どこかへ行ったらそのまちを歩き回る、というのが私の旅のスタイルだった。若い頃は特に、じっとしているなんてもったいない、と宿にいるのは寝る時だけ、素泊まりのことも多かったが、年齢とともに、もっと宿での時間を楽しんでもいいのでは、と思い始めた。というわけで、ゆったりと温泉に浸かり、地のものを食べ、ぼんやりと景色を楽しめる宿を選ぶことも増えた。最近ではその贅沢な時間の過ごし方にすっかり魅了され、今では私の新たな旅のスタイルのひとつになりつつある。

南信州の阿智村、昼神温泉郷にある『石苔亭いしだ』も、まさに滞在そのものを楽しむための旅館だ。年の瀬、今年のやり残したことと来年やりたいことを思うと、なんだか忙しない日々。諸々をすっきりさせようと、旅に出ることにした。今回初めて南信を訪れるが、旅程は「宿」のみ。若かりし頃の私ならば絶対にしなかった計画に、少し大人になった気持ちもする。いくつか峠を越えたのち、高速道路を走り、最寄りのインターへ。寄り道はせずに、そそくさと宿へと車を走らせた。

能舞台、茶室、伝統美 『石苔亭いしだ』

エントランスから気品漂う雰囲気

旅館の存在を映したかのような松が描かれた能舞台、「紫宸殿」

茶室も併設された館内。中庭を眺めるのも気持ちがいい

東信に住んでいると、南信ははっきり言って他県よりも遠い。が、その移動距離が、非日常を演出してくれる。休憩も挟みながら3時間ほど走らせて到着した阿智村は、同じ長野と言えど、そこはかとなく違う雰囲気が漂っている。道の看板、走る車のナンバープレートなどから感じるいつもと違う景色に、自然と心が躍る。

宿に着き、さらにその気持ちを盛り上げたのが、石畳のエントランスだ。しっとりとした雰囲気の中を、静々と歩く。入口のドアが開くと優美な松が描かれた能舞台が目に入り、視線が釘付けになった。照らし出された松は客人を迎え入れつつも、その孤高の姿を見る者に印象付ける。圧倒されながら玄関に足を踏み入れると、その瞬間、ふわりとお香の匂いが鼻をかすめ、ついうっとりとため息をついた。

「ようこそいらっしゃいました。」と迎え入れられ、中へと案内される。格式高い場所に慣れていない私は、どうしていいかわからず挙動不審だったが、さりげないエスコートで気づいた時にはロビーの椅子の前にいた。どうぞお掛けください、と言われるまで突っ立っていたのは、そのあまりの滑らかさに惚れ惚れとしていたからだ。

今回様々な手配をして下さった支配人の井口さんに挨拶をし、正直に、高級旅館には不慣れで緊張しているという、どうでも良い個人情報を伝える。すると、そうおっしゃってくださる方も多いですが、あまり気張らず、どうぞお気軽に過ごしてください、とにっこり笑った。スタッフの方々の、確実に丁寧でありつつ、でも、緊張させないリラックスした雰囲気。どうしたらそういうものが醸せるのだろう。私には一生できるまい。

『石苔亭いしだ』はおよそ1000坪の中に17室という贅沢な敷地の使い方で、前述の能舞台や茶室、もちろん温泉もある旅館だ。数寄屋造りの館内は、細部まで趣向を凝らされ、日本の伝統的な文化の持つ美しさに気づかせてくれる。一つとして同じ部屋はなく、調度品などもそれぞれ異なる。手入れされた中庭を望む廊下を、ただ歩くだけでも楽しい。
昼神温泉は今年、出湯50周年。『石苔亭いしだ』は、先代からこの地の温泉地としての歩みに大きく関わってきた。温泉地のはじまりを知り、共に作り上げてきた人々がまだ地域に根ざし、今なお歴史を作り続けている。昼神温泉と共にあるこの旅館にいるだけでも、生き生きとした時代の感触が迫ってくるようだ。

阿智村といえば、星空を思い浮かべる人が多いかもしれない。だが、ここではあえてそれを積極的にプランとして組み込んだりはしていない。「できれば夜のゆったりとした時間を、宿で過ごして頂けたらと考えております。」と井口さんは静かに、でも力強く話す。自分たちがどんな存在であるべきかを熟慮した上で、そのような結論に至ったのだという。凛としたその姿勢に、すっかり心を掴まれてしまった。

軽やかに、委ねる、時

丸窓が映える和洋折衷スタイル

広い空間を独り占めだ

デッキには露天風呂、火照った体を冷やす屋外チェアも

ロッキングチェアに座って温泉の湯煙を眺める

チェックインを済ませ、担当してくれたスタッフの三尾さんが今日泊まる部屋へ案内してくれた。世間話をしながらも、着物姿ならではの丁寧な所作で館内の説明をする。紅葉が描かれたふかふかとした絨毯を歩きながら、旅館に来たなあという気分になる。

「こちらが本日のお部屋でございます。」と、通された部屋の襖を開ければ、大きな丸窓が私を迎えた。外の光でぼんやりと明るく浮かび上がるそれは、まるで満月のようだ。そこから洋室とベッドルームが続き、さらに中庭を望む広いデッキには半露店の温泉が付いている。すごい。思わず口から言葉が飛び出すと、どうぞごゆっくりお過ごしください、と三尾さんが微笑む。夕食の時にまたお迎えに来てくれるという。

ひとり部屋に残された私は、恐らくにやにやしていた。そして贅沢な空間を独り占めできることに興奮し、まずは部屋にある全ての椅子に順々に座っていった。それぞれの位置から、ひとしきり室内を眺める。良い眺めだ。夕方にかけて少しずつ暗くなっていく光の変化が、部屋の表情を変えていく。中庭に向いたロッキングチェアに座ると、デッキにある温泉の湯気が自然と目に入った。ゆらゆら椅子に揺れながら、絶え間なく水面から立ち上る湯気を眺める。この生産性など何もない時間にただ身を委ねていると、私の中で何かがひとつ、ほどけていった。

目的を達成するとか、成果を上げるとか、そういった忙しなさから離れていく旅は、心身を軽やかにしてくれる。私はといえば、温泉を“眺める”という新しい楽しみ方を発見したことにうれしさがこみ上げ、再びにやにやしているのだった。

丹念な仕事、旬の味わい、喜びの一口

能舞台の横から少し上がった個室で夕食を頂こう

こっそり上から能舞台を眺められるのだ

ひとつひとつ丁寧に作られた作品たち

利き酒セットで色々な地酒を一緒に楽しむ

通常メインは信州牛のステーキ。陶板でミディアムレアに焼くのがおすすめ

時計もスマホも見ずに過ごしていたら、あっという間に夕食の時間が近づいてきた。部屋に用意されていた浴衣に着替え(旅館ごとに個性があり、実は密かな楽しみでもある)、迎えに来た三尾さんと共に会場へ向かう。通されたのは能舞台が見える、中二階の個室。扉も少し小さくて、隠し部屋のようでわくわくする。

席につきお品書きを見ながら、そこに並んだ先付けと前菜の説明を受ける。旬のものをふんだんに取り入れ、見た目にも楽しい。ちょこんと盛られたそれぞれの佇まいは、まさにひとつひとつが作品である。自然の恵みを凝縮させた作品たちを前に、うやうやしい気持ちになる。丁寧に箸でつまみ口へと運べば、それが体中に滋養を与えていくのが分かった。単に栄養という意味ではない。心にも潤いをもたらすものだ。

次に運ばれてきたのは、みぞれ餡の吸物。力を入れているメニューのひとつでもあるそうで、蕪のすり流しのおぼろげな白の中に、紅葉の麩が漂う。舌触りが心地よく、その優しい味わいはどこか懐かしい。洗練された中にも、ふと感じるこの安心感。日本料理ならではだ。

その地のものや季節のもの、丹精込めて作られたものを食べるという行為は、ちょっとした儀式のようにも思える。お供えをするように、私たちは自然の恵みを体に捧げる。おいしいものを食べた時の恍惚はもしかしたら、自然と私たちが通じあう喜びなのかもしれない。料理に合わせて飲む地酒の味わいもまた、その喜びを加速させる。一口進むごとに、瞼を閉じる。すると、軽やかに空に浮かんでいるように、自由な気持ちになった(もしかしたら段々と酔いが回ってきたのかもしれない)。

たっぷりと時間をかけて、少しずつ料理が運ばれてくる。どれも美しくて、食べるのがもったいない。肉を食べないのでメインは魚に変更してもらった。鰆と共に付け合わせの焼き栗。最後に栗を食べ終えたら、器に描かれた少し茶色がかったすすきが顔を出し、なぜかそれがとても胸を打った。移り変わる四季の景色が頭の中に流れ出して、秋から冬にかけての、あの乾いた風が吹いた気がした。
料理を食べてこんな気持ちになるのは初めてだったが、それはこの隅々まで心尽くしが行き届いた場所だからこそ、起こったのだろう。手の込んだ料理とは、贅を尽くしてきらびやかに飾るということではなく、丹念な仕事から生まれる本質的なもの。だからこそ、一皿を通じて自然の恵みを“頂く”ということを深く体験できるのだ。

名残惜しみつつも、最後のデザートを食べ終え部屋へと戻る。再び湯気を眺めながら、ソファに沈み込む。ちなみにまだ温泉には入っていない。楽しみは取っておきたい派なのだ。この後は、和太鼓の演奏があるという。お腹を少し落ち着けたら、再び能舞台へと出かけよう。

宵、響く太鼓と人の“和”

宵をさらに盛り上げる和太鼓の音。その場の空気に委ねる心地よさ

誰にとっても居心地の良い場所に。そんな女将の哲学が訪れる人を包む

旅館の至る所から感じられる優しさは、心身をふんわりほどいてくれる

能舞台「紫宸殿」。ここでは毎夜、様々な宴が催されている。この日の演目は、和太鼓だ。静寂の中から起こり、段々と大きくなる力強い太鼓の音。体の底に響き渡れば、自然と気持ちが高ぶっていく。波のような空気の振動に、皆が揺られているようだ。手拍子と共に盛り上がる音は、さらに大きな海原へと私たちを連れ出していく。音と、この場にいる人たちが作り出す不思議な一体感を味わいながら、ただそこに揺られる。和太鼓が鳴っている時だけではない、旅館の所々で感じるこの不思議な心地は、何だろう。

それは、女将である逸見さんの話してくれたことに帰結する。終始謙虚に、なおかつ気さくに話を聞かせてくれた彼女は、昼神温泉と共に年を重ねてきた。家業を継ぐという、私には想像もつかないような大きな仕事。それを成す中で醸成された言葉は、どれもずしりと心に響く。

彼女がまだ子どもだった時、この旅館の前身ができた。両親は忙しくなり、それまでの生活が一変した。「だから、ここが大っ嫌いでした。」と話す表情に、こちらも胸が締め付けられる。でも、そんな風に感じるのを変えたい、どうにかしたい。自分にとってこの場所を、「ずっといたい」と思える場所に変えよう、と今に至るまで『石苔亭いしだ』と歩んできた。スタッフにとって安心できる“居場所”であること、幸せを感じられることが、ひいてはここを訪れる人すべての人の心地よさにつながる。そう信じて、様々な取り組みをしてきたという。

逸見さんをはじめ、スタッフの丁寧ながらも自然体な様子は私たちにも無意識に、ここは安心していい場所なのだと感じさせる。それぞれにとって心地の良い“居場所”。旅館にはいろいろな人が訪れるが、この場所はその全てを包み込む。だから誰もがくつろぎ、やわらぎ、なごむ。私も気づけば、最初に持っていた緊張感が、もうどこにもなくなっていた。

伝統的な日本の文化とは、まさに“和”。人、自然、歴史、文化、すべてを含む場の調和。そこには自然と優しさが溢れていく。そのような場所では、心にゆとりが生まれ、本来に立ち返ることができる。目の前にいる人を思い、敬い、行う。複雑になりすぎた社会で忘れそうになっている原点が、やはり一番大切なのだと思い出させてくれる。

「人種・国籍や性別、肩書を超えて、ひとりの人としてお客様とお付き合いしたいと思っています。」

自分の存在意義を常に問い続け、どうあるべきかを模索してきた逸見さん。その哲学は、言葉にするまでもない。宵の舞台で繰り広げられる太鼓の音と、重なっていく手拍子と共に、私たちに染み込んでくるのであった。

暖炉、温泉、冷めぬ心

大浴場前の休憩処。本棚もあり、好きな一冊と共にゆったりできる

スタッフの方がこまめに火を手入れしていた暖炉。椅子に座って眺めよう

旅館での贅沢な時間の過ごし方。内側から満たされていく

演目を見終えた後、興奮冷めやらぬ気持ちを落ち着けるべく温泉へと向かう。大浴場の露天風呂に入れば、外は雨が降っていた。空から落ちてくる水滴が、水面に波紋を広げるのを見つめる。それぞれが響き合う様子は、見ていても飽きない。
単純硫黄泉の温泉は無色透明だが、入った途端にとろりとした感触を皮膚に感じる。と同時に、体全体がじんわりと温まり、自然と息が外に漏れた。奥の方は、洞窟になっている。お湯に沈んだまま低い姿勢で歩き、洞窟の岩陰にもたれかかる。私の他には、誰もいない。ぼんやりと外を望む。洞内は湯気で満たされ、すっかり更けた夜に外の光が霞んで見えた。
のぼせない程度に湯を楽しんだ後は、大浴場の前にある休憩処で、暖炉の火を見つめてぼんやりした。ふと、体だけでなく、心もすっかり温まっていることに気づく。

非日常。ともするとそれは、現実逃避のようなものになってしまうことがある。それが悪いことだとは思わないが、そこから日常へ戻る時に引き起こされる軋轢が、私には少し荷が重い。週休二日制の日曜日の夜のような、あのどんよりと重くのしかかってくる感覚は、帰りたくないという気持ちになって旅の終わりを後味の悪いものにすることがある。
だが不思議なことに、この旅館での夜は、晴れやかだ。なぜか朗らかな気持ちが、こんこんと内側に湧き上がる。

部屋に戻り、布団に体を収める。湯たんぽで温められた足元は、ポカポカとしている。その熱と、温泉の後の体から発せられる熱が布団に充満していく。自然と笑みがこぼれそうになった。帰らなければならないのに、日常に戻るのが楽しみで仕方がなかったのだ。

朝、みなぎる英気と金平糖

冬の間は“湯屋守様(ゆやもりさま)”も昼神温泉の湯に浸かる。その期間に湯に入ると、ご利益があるとか

旅館が立ち並ぶ阿智川沿いを散歩するのも楽しい。女将のおすすめは新緑の時期だという

『石苔亭いしだ』すぐ近くで毎朝開催される朝市には地元で採れたものが沢山

31種類の皿が並ぶ“短歌膳”は圧巻だ

浴衣でうまく寝るのは難しい。帯にかろうじて留まる布を整えて、身支度を整える。昨夜の温泉で温まったせいか、開放的な寝相だったようだ。ロビーへ向かうと三尾さんが迎えてくれた。夜に頂いた食材はもはや私の血肉となり、胃には何も残っていない。我ながら驚いた。素晴らしい料理とは、こういうものなのか。
昨日と同じ“秘密の部屋”に案内され入り口を上がると、整然と並ぶたくさんのおかずが私を待っていた。その美しさに、きっと誰もが声を上げるだろう。「短歌膳」と名付けられた朝食は、味噌汁とごはんと合わせて五・七・五・七・七、合計31種類の豆皿が一堂に会している。どれから食べようか、迷ってしまう。

「おかずがたくさんでご飯が進みますので、万が一おひつのご飯が足りなくなったらお気軽にお声かけ下さいね。」

さすがにおひつのご飯を、しかもひとりで、食べつくすなんてことはないでしょう、と思いながらもおかずに手を伸ばしていくと、三尾さんの予言通り、するりとご飯が茶碗からなくなっていく。進むがままに何度もおかわりをしていたら、気づけばおひつに残るのは茶碗一杯ほどの米のみ。おひつは通常かなり多めのご飯を入れてあるはずなので、さすがに恐ろしくなり、最後の一杯は自粛した。だが、食べ進めるほどに、体が軽くなっていくようなのだ。一体これは、どういう仕組みなのだろう。

ご飯をたくさん食べた私は、間違いなく、とても満たされていた。お腹だけではない。昨日から今日にかけて、心身はすっかりほどけ、英気がみなぎっている。ここから戻る日々の生活へ、前向きな気持ちで溢れていた。新しい年へ向けて、やりたいことが次々に浮かんでくる。道行く人に挨拶して回りたいくらい、心が開いている。

旅館にいるだけで感じる心尽くしと、優しさが行き渡った居心地の良さがきっと、そうさせるのだろう。間違いなくここでの非日常の体験は、日常をより豊かに楽しむためのものだった。ただ日常から切り離された旅では感じられない、何ともいえない多幸感が、全身を包んでいた。


チェックアウトの時、ずっとお世話をしてくれた三尾さんから、小さな封筒に入った手紙を頂いた。そして、かわいらしい金平糖。棘が厄を払うんですよ、と逸見さんが柔らかい笑顔と共に教えてくれた。玄関口で客人を送り出す女将としてのその佇まいは、最後まで徹底して美しく、見惚れてしまいそうだった。
旅館を後にし車を走らせた後、バックミラーを覗くと、井口さんとスタッフの方がまだ手を振っているのが見えた。絶対に見えないけれど、運転しながら会釈をした。なんて、温かいのだろう。外には12月の冷たい風が吹いていたが、帰りの道すがら、私の内側はずっと柔らかく、温かいままだった。


『石苔亭いしだ』
https://www.sekitaitei.com/


取材・撮影・文:櫻井 麻美

<著者プロフィール>
櫻井 麻美(Asami Sakurai)
ライター、ヨガ講師、たまにイラストレーター
世界一周したのちに日本各地の農家を渡り歩いた経験から、旅をするように人生を生きることをめざす。2019年に東京から長野に移住。「あそび」と「しごと」をまぜ合わせながら、日々を過ごす。
https://www.instagram.com/tariru_yoga/

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