南アルプス北部、仙丈ヶ岳の稜線近くに建つ「馬の背ヒュッテ」。若い女性をはじめ、お酒好きの中高年などにも人気が高い山小屋だ。夕食はオリジナルの鹿肉カレー。日本酒をこよなく愛する女将が提供する、その味とは?
ダケカンバの森のなかに佇む「馬の背ヒュッテ」
「南アルプスの女王」と呼ばれる仙丈ヶ岳(3033m)。その中腹にある「馬の背ヒュッテ」の夕食「鹿肉カレー」が登山者の人気を呼んでいる。数年前にオーナーが替わった山小屋で、今は女将が切り盛りしているようだ。
南アルプスの玄関口である北沢峠でバスを下り、藪沢沿いのルートを登り始める。尾根沿いのルートもあるが、蒸し暑い日だったので、涼し気な沢沿いのルートは気持ちがよかった。沢の音を聞きながら2時間半ほど登り、ダケカンバの森の中に入ると「馬の背ヒュッテ」が現われた。
ザックを下ろし、小屋の前のベンチに腰を掛けた。
週末のお昼時とあって、小屋の前には大勢の登山客が集まっている。宿泊客でなく、休憩目的の人たちのようだ。
「この手ぬぐい可愛い!」「カップも素敵!」
若い世代のグループ、とくに女性たちが、山小屋のオリジナルグッズに釘付けになっている。
南アルプスの玄関口である北沢峠でバスを下り、藪沢沿いのルートを登り始める。尾根沿いのルートもあるが、蒸し暑い日だったので、涼し気な沢沿いのルートは気持ちがよかった。沢の音を聞きながら2時間半ほど登り、ダケカンバの森の中に入ると「馬の背ヒュッテ」が現われた。
ザックを下ろし、小屋の前のベンチに腰を掛けた。
週末のお昼時とあって、小屋の前には大勢の登山客が集まっている。宿泊客でなく、休憩目的の人たちのようだ。
「この手ぬぐい可愛い!」「カップも素敵!」
若い世代のグループ、とくに女性たちが、山小屋のオリジナルグッズに釘付けになっている。
ホッと寛げる、温もりあふれる空間
上がすぼまる台形をした馬の背ヒュッテ。森の中にぽつんと佇む姿は、なんとも可愛らしい。
受付を済ませ、小屋に入る。年月を経た建物のようだが、丁寧に手を掛けられているのが分かる。部屋にザックを下ろし、ホッとひと息ついた。
「今日は、この部屋は女性限定です。ごゆっくりしてくださいね」
客室へ案内してくれたのは、女将の斎藤しのぶさんだった。
馬の背ヒュッテに個室はなく、すべて大部屋である。いつもという訳にはいかないが、可能な日には女性のみの客室を作るそうだ。
就寝スペースは上半身部分がパーティションで区切られ、一人ずつマットレスと毛布が用意されている。寝ている間、見知らぬ人の顔がすぐそばにあるのは落ち着かないものだが、このような工夫があれば、ストレスはかなり軽減される。
昼食に、小屋のおでんを注文した。温かい汁が疲れた体に染みわたる。食後には、小屋内をウロウロと見学。3階建ての建物は、吹き抜け構造となっており、1階は食堂と乾燥室、2階と3階が客室となっている。小さいが更衣室もあった。食堂には手書きのメニューやタペストリーが壁に飾られ、温もりのある雰囲気を演出している。
受付を済ませ、小屋に入る。年月を経た建物のようだが、丁寧に手を掛けられているのが分かる。部屋にザックを下ろし、ホッとひと息ついた。
「今日は、この部屋は女性限定です。ごゆっくりしてくださいね」
客室へ案内してくれたのは、女将の斎藤しのぶさんだった。
馬の背ヒュッテに個室はなく、すべて大部屋である。いつもという訳にはいかないが、可能な日には女性のみの客室を作るそうだ。
就寝スペースは上半身部分がパーティションで区切られ、一人ずつマットレスと毛布が用意されている。寝ている間、見知らぬ人の顔がすぐそばにあるのは落ち着かないものだが、このような工夫があれば、ストレスはかなり軽減される。
昼食に、小屋のおでんを注文した。温かい汁が疲れた体に染みわたる。食後には、小屋内をウロウロと見学。3階建ての建物は、吹き抜け構造となっており、1階は食堂と乾燥室、2階と3階が客室となっている。小さいが更衣室もあった。食堂には手書きのメニューやタペストリーが壁に飾られ、温もりのある雰囲気を演出している。
女将が担ぎ上げた日本酒を味わう「利き酒セット」
女将の斎藤しのぶさんは、2017年~19年に小屋番を務めた後、コロナ禍での営業中止期間を経て、2022年に女将として小屋の経営を引き継ぎ、営業を再開したという。
食堂の棚に、ずらりと並ぶ日本酒の一升瓶。「女将の利き酒セット」は、馬の背ヒュッテの名物のひとつとなっている。
斎藤さんは、馬の背ヒュッテに来る前、北アルプスの小屋で働いており、山小屋のオフシーズンである冬に大町の酒蔵で働いていたという。酒蔵での仕事を経て、日本酒が大好きになった斎藤さんは、自分が気に入った日本酒を多くの人に知って欲しいという思いから「女将の利き酒セット」を始めたという。
今では、お酒を飲むことを目的に馬の背ヒュッテに来るお客さんもいるとか。
この日も、利き酒セットを注文した男性が「山の上でこんな美味しいお酒が飲めるなんて最高」と、食堂でほろ酔い気分を楽しんでいた。
じつは、これらの日本酒は、すべて斎藤さんが背負って、小屋まで担ぎ上げたものだ。
「お酒だけは自分で背負って上げるほうが、面白いかなと思って。ヘリコプターで上げることもできますから、無駄なことなんですけど、そういうのが好きなんです。皆さんに『面白い』って思ってもらえることが、自分も楽しいので」と斎藤さんは笑う。
「歩荷(重い荷物を担いで登山をすること)は好きなんです」と斎藤さん。
昔、北海道で登山ガイドの修行をした時期があり、歩荷力はかなり鍛えられたという。
それだけではない。かつて55日間をかけて北・中央・南と日本アルプスを縦走し、日本海から太平洋まで歩いたこともあるという猛者でもある。その時も一升瓶を担ぎ、出会った人たちにお酒を注いでまわったそうだ。
「お酒は好きですし、人並みより強いと思います。でも実は、飲むよりも、飲ませるほうが好き。人に注いでいるほうが多いかもしれないですね(笑)」
食堂の棚に、ずらりと並ぶ日本酒の一升瓶。「女将の利き酒セット」は、馬の背ヒュッテの名物のひとつとなっている。
斎藤さんは、馬の背ヒュッテに来る前、北アルプスの小屋で働いており、山小屋のオフシーズンである冬に大町の酒蔵で働いていたという。酒蔵での仕事を経て、日本酒が大好きになった斎藤さんは、自分が気に入った日本酒を多くの人に知って欲しいという思いから「女将の利き酒セット」を始めたという。
今では、お酒を飲むことを目的に馬の背ヒュッテに来るお客さんもいるとか。
この日も、利き酒セットを注文した男性が「山の上でこんな美味しいお酒が飲めるなんて最高」と、食堂でほろ酔い気分を楽しんでいた。
じつは、これらの日本酒は、すべて斎藤さんが背負って、小屋まで担ぎ上げたものだ。
「お酒だけは自分で背負って上げるほうが、面白いかなと思って。ヘリコプターで上げることもできますから、無駄なことなんですけど、そういうのが好きなんです。皆さんに『面白い』って思ってもらえることが、自分も楽しいので」と斎藤さんは笑う。
「歩荷(重い荷物を担いで登山をすること)は好きなんです」と斎藤さん。
昔、北海道で登山ガイドの修行をした時期があり、歩荷力はかなり鍛えられたという。
それだけではない。かつて55日間をかけて北・中央・南と日本アルプスを縦走し、日本海から太平洋まで歩いたこともあるという猛者でもある。その時も一升瓶を担ぎ、出会った人たちにお酒を注いでまわったそうだ。
「お酒は好きですし、人並みより強いと思います。でも実は、飲むよりも、飲ませるほうが好き。人に注いでいるほうが多いかもしれないですね(笑)」
南アルプスの自然への想いが詰まった「山の恵み 鹿肉カレー」
夕食時間が近くなると、小屋内は宿泊客で賑わってきた。この日の宿泊数は43名。小屋の定員が45名なので、ほぼ満室だ。
斎藤さんが女将になる以前は、定員が100名だったという。大部屋にマットレスと毛布をぎっしりと敷き詰めて、順番にギュっと詰めて寝てもらっていたそうだ。コロナ禍を機に定員を半分くらいに減らし、以来、それを維持しているという。
17時、馬の背ヒュッテ名物の「山の恵 鹿肉カレー」が食堂に並ぶ。揚げ野菜が乗ったカレーに、これまた野菜たっぷりの副菜が添えられている。
まずは、カレーを一口。野菜の甘味が口の中いっぱいに広がった。想像していたよりも、マイルドで優しい味だ。薄切りにされた鹿肉は、淡泊な味わい。口当たりもソフトで食べやすく、疲れた体にもスルスルと入っていく。
斎藤さんが女将になる以前は、定員が100名だったという。大部屋にマットレスと毛布をぎっしりと敷き詰めて、順番にギュっと詰めて寝てもらっていたそうだ。コロナ禍を機に定員を半分くらいに減らし、以来、それを維持しているという。
17時、馬の背ヒュッテ名物の「山の恵 鹿肉カレー」が食堂に並ぶ。揚げ野菜が乗ったカレーに、これまた野菜たっぷりの副菜が添えられている。
まずは、カレーを一口。野菜の甘味が口の中いっぱいに広がった。想像していたよりも、マイルドで優しい味だ。薄切りにされた鹿肉は、淡泊な味わい。口当たりもソフトで食べやすく、疲れた体にもスルスルと入っていく。
かつて馬の背ヒュッテでは、代々引き継がれたレシピに基づくカレーが提供されていたが、斎藤さんが女将となるにあたり、メニューを新しくしたいと思ったという。
そんなとき、小屋のスタッフとして来てくれることになったのが、ジビエの解体・調理・販売を手がけ、ジビエの魅力を広めている高橋詩織さんという女性だった。斎藤さんは、「せっかく詳しい人がいるんだから」と、高橋さんに新メニューについて相談したという。
そうして高橋さんにより生み出されたのが、馬の背ヒュッテのオリジナル鹿肉カレー。カレーにはルーやブイヨンを使わず、野菜の出汁やスパイスでコクを出す。隠し味には味噌を使った。
特筆すべきは、やはり鹿肉。薄切りにされた鹿肉は、女性や子どもも含め、誰にでも食べやすい味わいに仕上がっている。
「本当に臭みがないんです。それは(高橋)詩織ちゃんが鹿肉のプロで、適切な加工や調理がされているから。ジビエに苦手意識のある方にも、『これなら食べられる』と好評いただいています」と斎藤さんも言う。
増えすぎた鹿により、南アルプスを含め、多くの地域で貴重な高山植物が食害を受けていることは有名だ。馬の背ヒュッテも、昔はあたり一面がシナノキンバイのお花畑だったが、今はほとんど消滅してしまったという。
生態系のバランスが崩れていることと、人間の営みは決して無関係ではない。貴重な高山植物を守り、生態系のバランスを取り戻すために、少しでも鹿肉の消費量を上げていきたい。そんな熱い想いがこのカレーには込められているのだ。
そんなとき、小屋のスタッフとして来てくれることになったのが、ジビエの解体・調理・販売を手がけ、ジビエの魅力を広めている高橋詩織さんという女性だった。斎藤さんは、「せっかく詳しい人がいるんだから」と、高橋さんに新メニューについて相談したという。
そうして高橋さんにより生み出されたのが、馬の背ヒュッテのオリジナル鹿肉カレー。カレーにはルーやブイヨンを使わず、野菜の出汁やスパイスでコクを出す。隠し味には味噌を使った。
特筆すべきは、やはり鹿肉。薄切りにされた鹿肉は、女性や子どもも含め、誰にでも食べやすい味わいに仕上がっている。
「本当に臭みがないんです。それは(高橋)詩織ちゃんが鹿肉のプロで、適切な加工や調理がされているから。ジビエに苦手意識のある方にも、『これなら食べられる』と好評いただいています」と斎藤さんも言う。
増えすぎた鹿により、南アルプスを含め、多くの地域で貴重な高山植物が食害を受けていることは有名だ。馬の背ヒュッテも、昔はあたり一面がシナノキンバイのお花畑だったが、今はほとんど消滅してしまったという。
生態系のバランスが崩れていることと、人間の営みは決して無関係ではない。貴重な高山植物を守り、生態系のバランスを取り戻すために、少しでも鹿肉の消費量を上げていきたい。そんな熱い想いがこのカレーには込められているのだ。
登るだけではない、山での楽しみ方
馬の背ヒュッテでは、平日の夜に「ヒュッテの夜」というイベントが不定期で開催される。夕食後、食堂にキャンドルが灯され、集った人たちでお酒や語らいの時間を楽しむものだ。
この日は週末でイベントの開催はなかったが、それでも夕食後は自然と食堂に人が集まってきた。連れ合いと語らったり、お酒を飲みながら読書をしたり、思い思いに時間を過ごす。
「どちらからいらしたんですか?」
寝る前に体を温めようと、ホットドリンクを飲んでいた私は、女性2人組から声をかけられた。最初は差しさわりのない挨拶から始まり、次第に話題が広がって山談議に。いつも不思議に思うのだが、山では出会ったばかりの人とでも、すぐに親しくなれるのはなぜだろう。
ふと、昼間に斎藤さんが言っていたことを思い出した。
「山って、ピークに立つことだけがすべてではないと思うんです。雨の日だとキャンセルしちゃう方もいますが、山小屋で楽しく過ごすこともできる。そこで新しい出会いがあり、大切な思い出ができるかもしれない。この小屋が、人と人とがつながる場所になってほしいと思います」
人との出会い、共有する時間。そういう山の豊かさに気付くことができる場所が、馬の背ヒュッテなのだ。ピークハントと少し違う山の醍醐味を求める登山者に、ぜひおすすめしたい山小屋である。
この日は週末でイベントの開催はなかったが、それでも夕食後は自然と食堂に人が集まってきた。連れ合いと語らったり、お酒を飲みながら読書をしたり、思い思いに時間を過ごす。
「どちらからいらしたんですか?」
寝る前に体を温めようと、ホットドリンクを飲んでいた私は、女性2人組から声をかけられた。最初は差しさわりのない挨拶から始まり、次第に話題が広がって山談議に。いつも不思議に思うのだが、山では出会ったばかりの人とでも、すぐに親しくなれるのはなぜだろう。
ふと、昼間に斎藤さんが言っていたことを思い出した。
「山って、ピークに立つことだけがすべてではないと思うんです。雨の日だとキャンセルしちゃう方もいますが、山小屋で楽しく過ごすこともできる。そこで新しい出会いがあり、大切な思い出ができるかもしれない。この小屋が、人と人とがつながる場所になってほしいと思います」
人との出会い、共有する時間。そういう山の豊かさに気付くことができる場所が、馬の背ヒュッテなのだ。ピークハントと少し違う山の醍醐味を求める登山者に、ぜひおすすめしたい山小屋である。
Profile
斎藤しのぶ/Shinobu Saito
福島県安達郡大玉村出身
南アルプス・仙丈ヶ岳「馬の背ヒュッテ」管理人
1973年生まれ。大学卒業後、北海道で登山ガイドの仕事に就き、その後、北アルプス・船窪小屋、御嶽山・五の池小屋で小屋番として働く。2016年、日本海の親不知から、北アルプス・中央アルプス・南アルプスを経て、太平洋(静岡県・大浜海岸)まで、55日間かけて単独縦走する。2017年より、南アルプス・仙丈ヶ岳の馬の背ヒュッテ管理人となる。コロナ禍となり、休業期間は甲斐駒ヶ岳の七丈小屋管理人として働き、2022年より再び馬の背ヒュッテの管理人に就任。冬季、酒蔵で働いた経験から日本酒好きとなり、小屋にもお気に入りの日本酒を自ら担ぎ上げ、提供している。
●仙丈ヶ岳(3033m)
馬の背ヒュッテから山頂へは、登り約1時間半。頂上は360度を見渡す絶景で、近くに甲斐駒ヶ岳や南アルプス、遠くに北アルプスも望める。山頂付近は、氷河により削られたカール地形となっている。仙丈ヶ岳から小仙丈ヶ岳にかけての稜線は、まさに天空の散歩道!
馬の背ヒュッテから山頂へは、登り約1時間半。頂上は360度を見渡す絶景で、近くに甲斐駒ヶ岳や南アルプス、遠くに北アルプスも望める。山頂付近は、氷河により削られたカール地形となっている。仙丈ヶ岳から小仙丈ヶ岳にかけての稜線は、まさに天空の散歩道!
Information
馬の背ヒュッテ
・営業期間:2024年7月1日(月)〜10月15日(火)【※最終宿泊日は10月14日(月)】
・標高:2630m
・アクセス:北沢峠から大滝ノ頭・藪沢小屋経由で約3時間。藪沢経由で約2時間40分。
撮影・文:横尾絢子
<著者プロフィール>
横尾 絢子(Ayako Yokoo)
編集者・ライター。気象予報士。高校時代より登山に親しむ。気象会社、新聞社の子会社を経て、出版社の山と溪谷社で月刊誌『山と溪谷』の編集に携わる。2020年、東京都から長野県佐久市に移住したのを機に独立。六花編集室代表。現在はフリーランスとして、主にアウトドア系の雑誌や書籍の編集・執筆活動を行なう。プライベートではテレマークスキーやSKIMO(山岳スキー競技)を中心に、季節を問わず山を楽しんでいる。日本山岳・スポーツクライミング協会SKIMO委員。