特集『天空の美食』②|登らなくても楽しめる3000m峰・乗鞍岳“美味しい”にこだわった冷泉小屋の食事・喫茶メニュー

登山初心者が登りやすい3000m峰と言って、まず筆頭に上がるのが乗鞍岳。中腹に建つ冷泉小屋は、16年間の休業期間を経て、2022年7月に営業を再開。美味しい食のオンパレードは、山で過ごす時間をいっそう豊かなものにしてくれる。

さまざまな人が行き交う“カオスな山”

8月。山腹の雪渓でスキーヤーが滑りを楽しむ

乗鞍岳の玄関、畳平。標高2804mまでバスで来られ、散策目的の観光客も多い

乗鞍エコーラインはサイクリストにとって「ヒルクライムの聖地」

8月。山腹の雪渓でスキーヤーが滑りを楽しむ

乗鞍岳の玄関、畳平。標高2804mまでバスで来られ、散策目的の観光客も多い

乗鞍エコーラインはサイクリストにとって「ヒルクライムの聖地」

登山とは何か。一般的には、徒歩で山頂を目指すことをイメージすることが多いだろう。しかし、そのイメージを覆す山がある。それは乗鞍岳だ。
標高2804mの畳平は、バスや自転車でアクセスできる日本一高い場所である。ワンピース姿の女性など、観光目的と思しき人たちもちらほら見かける。
乗鞍エコーラインには、多くのサイクリストの姿。なかにはビンディングシューズで山頂まで登ってくる強者もいる。そして山腹の雪渓には、登っては滑ることを繰り返すスキーヤーやスノーボーダーたちが集う。

カオスだ(肯定の意味で)、と、この光景を見た私は思った。
いろいろなアクティビティを楽しむ人たちが、なんの不思議もなく共存している。
何かは分からないが、乗鞍岳は、他の山とは明らかに異なる性質をもっている。

自然の力を活かして営む山小屋

小屋の前で湧き出す冷泉。水温は常に5℃前後だという

冷泉小屋。屋根自体が太陽光発電のパネルになっている

乗鞍エコーラインの中腹にある冷泉小屋は、サイクリストのオアシス

小屋の前で湧き出す冷泉。水温は常に5℃前後だという

冷泉小屋。屋根自体が太陽光発電のパネルになっている

乗鞍エコーラインの中腹にある冷泉小屋は、サイクリストのオアシス

乗鞍エコーラインの中ほどにある「冷泉小屋」は、1931(昭和6)年に創業された歴史ある山小屋。諸事情により長らく閉鎖されていたが、2022年、営業が再開された。

「冷泉小屋」の停留所でバスを降りると、涼やかな水音が耳に入ってきた。小屋の前には、滝のように水が流れ出ている。小屋名の由来でもある冷泉だ。豊富な水量にびっくりする。

「すぐそこから湧き出ているんですよ。普段はもっと硫黄の匂いがするんですけど」
笑顔で話かけてくださったのは、小屋の新オーナー・村田淳一さんだ。

冷泉小屋は、車が入れるとはいえ、ガスや電気、水道などは通っていない完全オフグリッドな環境にある。小屋を再開するにあたり最も苦労したのが、これらのインフラシステムの構築だったそうだ。

「電気は、最初はポータブル電源を使っていました。でも毎日、山麓まで下りて充電しなくちゃいけなくて。非効率で環境負荷も大きく、気持ちの面でもモヤモヤしていました。それで昨年、太陽光発電に変えたんですよ」
見上げると、小屋の屋根に太陽光パネルは載っていない。
「屋根自体がパネルになっているんです。降雪にも耐えられるので、すごくいいですよ」

最大の資源である冷泉を活かそうと、宿泊客用のお風呂も作ったという。
「でも、硫黄分や鉄分によって湯沸かし器がすぐに壊れちゃったんです。太陽熱を使って間接的に水を温める方法に変えてからは、ようやく安定してお風呂に入れるようになりました」

仕事での出会いをきっかけに山小屋オーナーへ

淳一さんはコアなカヌーイストで、「サラリーマン転覆隊」というカヌーチームに所属。転覆隊の活動は、雑誌の連載を機に書籍化・ドラマ化もされた

新オーナー夫妻の、村田淳一さん(左)と実樹さん(右)

淳一さんはコアなカヌーイストで、「サラリーマン転覆隊」というカヌーチームに所属。転覆隊の活動は、雑誌の連載を機に書籍化・ドラマ化もされた

新オーナー夫妻の、村田淳一さん(左)と実樹さん(右)

山小屋運営に新しいテクノロジーを積極的に取り入れている淳一さん。
「ここは道路も通っていますから、オフグリッド環境の実験場としては最適です。この太陽光パネルは、他の山小屋でも役に立つと思いますよ。冷泉ももっと活用したいと考えていて、繊維分野が得意な信州大学に、水のろ過システムについて相談しようと考えているところです。将来的には自家水力発電もやってみたいですね」

淳一さんは、妻の実樹さんと、その他数名のスタッフと共に、小屋を切り盛りしている。
冷泉小屋の営業は週末のみ。平日は東京の映像制作会社に勤めている会社員だ。実樹さんもフリーランスで広告関係のお仕事をされているという。
クリエイティブなご夫婦が二人三脚で営む山小屋、それが冷泉小屋だ。

これまでもアウトドアには長く親しんできたという淳一さん。
「学生時代、野田知佑さんの『日本の川を旅する』という本を読み、カヌーに憧れました。社会人になってから『サラリーマン転覆隊』というカヌーチームに所属して、国内外の川下りや、ママチャリでのお遍路旅などいろいろやりましたよ」

15年ほど前、ご両親が安曇野に移住したのをきっかけに本格的な登山を始め、さまざまな山に登ってきたという。
その頃、仕事で登山アプリのPRプロジェクトに携わることになった淳一さん。若い世代を登山に取り込むための施策を話し合っていたとき、次のようなアイデアが出されたという。
『山小屋をリノベーションして、快適に過ごせるようにアップデートしたらいいんじゃないか』

そこで既存の山小屋について調べたところ、山小屋は世襲制か自治体所有がほとんどで、そこに参入するのは非常に難しいことが分かったという。

そんななか、売却に出ていたのが冷泉小屋だった。淳一さんは冷泉小屋の前オーナーに連絡を取り、話を聞いたという。
その後、結果としてプロジェクト自体は消滅してしまったが、冷泉小屋の前オーナーからは「小屋を再開してほしい」という熱烈なアプローチが続く。その熱意に押された村田さんは、ついに小屋の運営を引き受ける。

滞在をゆったり楽しむ空間づくり

天井板を外し、解放感を出した。創建当時の梁が風情を醸し出す

ツインの個室。山の中でありながらも快適さは抜群。北欧テイストに心が癒される

ドミトリーの客室。荷物を置くスペースも十分に確保されている

1階中央にあるライブラリ。文学部出身という淳一さんの蔵書が並ぶ

ダイニングの奥にある小上がり。秘密基地のようで妙に落ち着く。子どもが大好きな場所だとか

天井板を外し、解放感を出した。創建当時の梁が風情を醸し出す

ツインの個室。山の中でありながらも快適さは抜群。北欧テイストに心が癒される

ドミトリーの客室。荷物を置くスペースも十分に確保されている

1階中央にあるライブラリ。文学部出身という淳一さんの蔵書が並ぶ

ダイニングの奥にある小上がり。秘密基地のようで妙に落ち着く。子どもが大好きな場所だとか

小屋に入ると、ふわりと新しい木の香りが漂った。ダイニングの大きな窓からは、標高2100mからの眺望が広がる。建物は2階建てで、入り口とダイニングがあるのが2階。1階は客室や風呂など宿泊客向けのスペースになっている。

客室は、個室3室にドミトリー1室。定員11人という、超少人数の山小屋だ。
個室はすべてベッドルームで、ゆったりと過ごせるよう広めの間取りに。実樹さんが選んだインテリアや小物は、温かみのある北欧デザインで統一されている。

リノベーションにあたり、実樹さんの知り合いの建築ユニット「o+h」に設計を依頼。ダイニングは、天井板を外し、窓を大きくしたことで、解放感あふれる空間になった。
ダイニングの一角にある小上がりは、「山小屋というパブリックな場所でも、一人になれるプライベート空間があってもいいのでは」という設計士のアイデアで作られたものだという。

野菜たっぷりの食事で体も心もリフレッシュ

「塩キャラメルのアイスクリーム」。デザートも大満足の美味しさ

ニンジンのラぺ、ラタトゥイユなど、地元野菜をふんだんに使った前菜プレート

桃と生ハム、モッツァレラチーズのマリネは、まろやかなハーモニーが絶品

じっくりと仕込まれた「塩豚の煮込み」。クラフトビールと一緒に味わいたい

「塩キャラメルのアイスクリーム」。デザートも大満足の美味しさ

ニンジンのラぺ、ラタトゥイユなど、地元野菜をふんだんに使った前菜プレート

桃と生ハム、モッツァレラチーズのマリネは、まろやかなハーモニーが絶品

じっくりと仕込まれた「塩豚の煮込み」。クラフトビールと一緒に味わいたい

小屋に夕陽が差し込み始める。次第に薄暗くなり、ダイニングのランプが灯された。
冷泉小屋の夕食は、山小屋としては非常に珍しく、アラカルトでの注文制だ。
「定員が11名だからできることですよね。すごく手間がかかりますけど(笑)」と、厨房を担当する実樹さんは言う。

もともと料理が好きで、ホームパーティーを頻繁に開催していたという実樹さん。スリランカの伝統医療「アーユルヴェーダ」に精通し、なんと本場スリランカでアーユルヴェーダのホテルをプロデュースしているそうだ。
小屋のメニューには、野菜を多く使うようにしているという。
「松本はお野菜が美味しい。だから、お客様にもぜひ味わってもらいたいんです」

「山小屋バル」をテーマにしたオーブン料理や煮込み料理、シャルキュトリーなどは、どれも山小屋とは思えないクオリティ。体と心が幸福に満たされていくのを感じる。
ただ、オフグリッドの環境下ならではの限界もある、と実樹さんは言う。
「電気容量や調理器具などには制限があります。今は可能な限り下で仕込みをおこなっています。車で食材を運べる環境は恵まれていますね」

「レモンケーキ」はコーヒーとの相性◎。淳一さんのお母様の手作りクッキー付き

朝食は、ビーツとジャガイモのポタージュ、サラダ、コーンパン、トマトベーグル、フルーツ。こだわりの豆で淹れるコーヒーも美味

注文のたび淳一さんが揚げるカレーパンは、ひき肉でなく角切りビーフ入り。淳一さんのお母様、みちこさんのレシピだとか

ランチの「よくばり弁当」。メスティンにたっぷりとおかずが詰められ、登山後の空腹を満たしてくれる

夏季限定の「冷泉クリームソーダ」。冷泉をモチーフにしたブルーのソーダに、レモンアイスクリームが浮かべられている

「レモンケーキ」はコーヒーとの相性◎。淳一さんのお母様の手作りクッキー付き

朝食は、ビーツとジャガイモのポタージュ、サラダ、コーンパン、トマトベーグル、フルーツ。こだわりの豆で淹れるコーヒーも美味

注文のたび淳一さんが揚げるカレーパンは、ひき肉でなく角切りビーフ入り。淳一さんのお母様、みちこさんのレシピだとか

ランチの「よくばり弁当」。メスティンにたっぷりとおかずが詰められ、登山後の空腹を満たしてくれる

夏季限定の「冷泉クリームソーダ」。冷泉をモチーフにしたブルーのソーダに、レモンアイスクリームが浮かべられている

「食べることが好きなので、美味しいものには貪欲なんです」と実樹さんは笑う。
喫茶やランチも、メスティンに詰められたお弁当や、クリームソーダ、スイカジュースなど、美味しそうなメニューが目白押しだ。
「スタッフも美味しいものが大好きで、ランチやカフェメニューも、みんなでワイワイ楽しみながら開発しています」

挑戦しているのは生ハムづくり。
「専門店の方に教わって、今年、仕込みました。完成する2年後が楽しみです。お客さま自身に好きなだけ切っていただき、量り売りするなどしたいですね」と実樹さんは顔を輝かせた。

美味しいものへの探求心は、不定期で行なわれる料理イベントにも表れている。アーユルヴェーダや台湾料理など、専門店のオーナーに来てもらい、本場の味を振る舞ってもらうそうだ。

“山に登る人も登らない人も楽しめる山小屋”

冷泉を沸かしたお風呂に入れる。山に慣れていない人には嬉しい

冷泉小屋の夜明け。ここには登山をしない人でも見られる絶景がある

冷泉を沸かしたお風呂に入れる。山に慣れていない人には嬉しい

冷泉小屋の夜明け。ここには登山をしない人でも見られる絶景がある

夕食後、小屋の外に出ると満天の星空が広がっていた。見上げていると、無数の星の海に吸い込まれてしまいそうだ。
一瞬、強い輝きが空を駆け抜けていった。「あっ、流れ星!」と思わず歓声を上げた。

「生まれて初めて天の川を見ました」と感動している女性は、山の景色を一度見てみたいと、一人旅で小屋を訪れたそうだ。登山は未経験だという。
「小屋だけ泊って帰る予定だったんですが、せっかくだから、明日はバスで畳平まで行ってみようと思います」と彼女は言った。
もしかしたら、この旅をきっかけに彼女も山を好きになってくれるかもしれない。そう思うと、私もうれしかった。

 “山に登る人も登らない人も楽しめる山小屋”――冷泉小屋のキャッチフレーズだ。

「日本の登山って、わりとストイックじゃないですか。でも、ラクをして山の素晴らしさを味わうのもアリだと思うんです」と淳一さん。
「登った人だけの特権だったものを、多くの人にシェアするサービスができたらいいなと、考えていた時期もありました。山頂まで連れて行ってくれるヘリサービス、荷物を持ってくれる歩荷サービスなんていいですよね」

乗鞍岳は、登山口から山頂まで1時間半。本格志向の登山者には中途半端かもしれないが、誰でも来られるということこそが、乗鞍の可能性だと淳一さんは言う。
「昔考えていた理想に、今はけっこう近い位置にいるんですよね」と、淳一さんは笑った。

畳平から約20分。富士見岳からの眺望。この絶景を手軽に望める乗鞍岳はやはり特異な場所である

「乗鞍岳はミックスカルチャーの場所」という淳一さんの言葉どおり、乗鞍岳に訪れるのは、登山者、サイクリスト、スキーヤー、観光客と、本当にさまざまだ。
乗鞍岳に来ると、山という大自然の恩恵が、実にさまざまな形で享受されていることを改めて実感する。
さまざまな人、価値観を受け入れていくことは、豊かな登山文化を育んでいくことに他ならない。そして、異なるアクティビティの人たちが接点をもち、共存している乗鞍岳は、ものすごく懐が深く、可能性に満ちた山なのだ。
Profile

村田淳一 / Junichi Murata

東京都世田谷区出身

乗鞍岳「冷泉小屋」オーナー
株式会社REISEN代表取締役

学生時代からバイクでの日本列島横断旅などを行ない、卒業後は都内の映像制作会社へ。30代でカヌーチーム「サラリーマン転覆隊」に入隊しアウトドアの世界へ。2021年に冷泉小屋オーナーに就任、2022年7月に小屋オープン。平日は都内の映像制作会社に勤め、週末は妻の実樹さんとともに小屋を運営している。10月4~6日に松本市で開催されるイベント「ALPS OUTDOOR SUMMIT」の総合プロデューサー。

・乗鞍岳(3026m/剣ヶ峰)
長野県と岐阜県の県境に位置する3000mを超える名峰。日本百名山にも選ばれている。23の峰と7つの湖、8つの平原から形成される巨大な山容をもっている。畳平から最高峰の剣ヶ峰までは片道1時間半と、登山初心者にも向いているが、標高が高いため悪天候や高山病には注意したい。

広大な乗鞍岳には見どころ満載。体力や好みに合わせて幅広くプランを立てられる

Information

冷泉小屋

https://reisenhutte.com/

・営業期間:7月1日~10月22日の金・土・日(※雪の状況により最終日は変更の可能性あり)

・標高:2100m

・アクセス:乗鞍高原観光センターからバスで約30分、「冷泉小屋前」で下車。

 

撮影・文:横尾絢子

 

<著者プロフィール>

 

横尾 絢子(Ayako Yokoo)


編集者・ライター。気象予報士。高校時代より登山に親しむ。気象会社、新聞社の子会社を経て、出版社の山と溪谷社で月刊誌『山と溪谷』の編集に携わる。2020年、東京都から長野県佐久市に移住したのを機に独立。六花編集室代表。現在はフリーランスとして、主にアウトドア系の雑誌や書籍の編集・執筆活動を行なう。プライベートではテレマークスキーやSKIMO(山岳スキー競技)を中心に、季節を問わず山を楽しんでいる。日本山岳・スポーツクライミング協会SKIMO委員。